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アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

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#320

雲を描く
― 上村博

ウージェーヌ・ブーダン《夕暮れの浜辺》1865年(米、メトロポリタン美術館)

空を描く、というコラム欄のタイトルだが、実際、空は描画の対象にもなってきた。空を描いた画家といえば、ウージェーヌ・ブーダンだろう。コローに「空の王」と呼ばれ、クールベに「あなただけが空を知っている」と言われたブーダンは、1824年にフランス北部の港町オンフルールに生まれ、やはり海に面したドーヴィルで1898年に亡くなる。彼の特徴は、ひとつにはその主題にある。彼は主にノルマンディーの海岸に遊ぶ都会の避暑客を描いている。これは裕福なブルジョワたちの登場と、鉄道による観光旅行がもたらした新しい海浜の風景で、従来の海景図でもなく、また漁師など地元の人物を描いたわけでもない。全く斬新な主題である。そしてもうひとつ、彼のブラッシュストロークも目につく特徴であろう。ブーダンの海浜の人物達は、その優雅な旅装も日傘をさした後ろ姿も、きわめて速いタッチで描かれる。たまに手前に向けられた顔かたちは簡略なもので、個々の表情はほとんど読み取れない。この素速い筆致は、絶え間なく移ろう自然の情景を瞬間的に捉えようとするためのものである。ブーダンはこう書く。「その場で、直接に描かれたものは、常に強さと力と生き生きとしたタッチを持っているが、それはアトリエでは失われてしまう。」「自然を前にした3本の筆痕はイーゼルで作業する2日間よりも価値がある。」(George Jean-Aubry, Eugène Boudin d’après des documents inédits, l’homme et l’oeuvre, p.135.)

たしかに、その場で見たものをその場で描くなら、ゆっくり筆先を舐めるように描いていては間に合わない。明確な形が定まっていて、それが動かない対象であれば、じっくり時間をかけて観察し、イーゼル上の画像と見比べつつ、丹念に描くこともできるだろう。しかし自然は動くものである。動くうえに、形態が安定しているわけでもない。刻一刻と太陽は動き、人の姿勢も移ろってゆく。筆を振るう行為は見る行為と時を措かず、一瞬を一筆でとどめなくてはならない。とりわけ、海や空のように茫漠としたものには、そもそも輪郭線で明確に形を定めることは不可能である。ブーダンは海と空、また空に浮かぶ雲のように、日々刻々に移ろう形のものを厭くことなく描き続けた。ブーダンのアトリエを訪れたボードレールは、そこで目にした習作についてこう書いている。「これらは、その強さと色彩において、最も不安定で、最も捉えがたいものであるところの、波そして雲を、きわめて迅速に、きわめて忠実に写しているが、その端には常に日付と時刻と風とが記されている。たとえば10月8日正午、北西の風といったように。」またボードレールは、ブーダンの風景について、キャプションを手で覆っても、それがいつどこで描かれたのかを当てることができるほど正確だ、ともいう(Ch. Baudelaire, Salon de 1859)。その時だけの形を写し取ることは、至難の業でもあるが、また同時にそのことだけが,本当の自然を写すことでもあろう。

ブーダンに先だって、イギリスのターナーも水や水蒸気、雲の風景を得意とした。ターナーは人物表現に長けているとは思えないが、そこはブーダンとも似ていて、両者ともに、人物の存在よりも、大きな空気や水の動きが画面の主要な部分を占めている。そのほかにも、十八世紀末のヴァランシエンヌも、自然を直接に描くことを重視し、雲を描いた習作を残している。しかし、雲に惹かれた画家をもうひとりあげるとしたら、やはりレオナルド・ダ・ヴィンチは外せないだろう。メモ魔であったレオナルドは、仕事のアイデアや思索のあとを書きとどめるだけでなく、自然を観察したさまざまなデッサンも残しているが、そこでは、川の流れや雲の渦、そして女性の髪の毛など、形の定まらない流体への強い関心が窺える。雲のように恒常的な形態を持っていないもの、風に吹かれ、水に流されて絶え間なく変化するものは,勿論デッサンしにくいものである。しかしそうした動きのあるものにこそ、彼は優美さ(grazia)を認めていた。さらに、レオナルドの関心事は,ただ雲や川というよりも、水のさまざまな変容にあるといった方がよいかもしれない。水蒸気が雲になり、雨になり、川になり,海になる、その一連の水の循環を、レオナルドは大地という巨大な生き物の体液の流れに喩える。その大きな運動のひとつの局面が雲なのだ。レオナルドの自然は、明確な輪郭線のなかに固定されたものというよりも、常に動いてやまない生命である。

雲を描くということは、そもそも不可能かもしれない。かつてブルネッレスキが、遠近法を用いた覗きからくりを作ったとき、建物や街路は計算した縮尺で正確に描き出したが、そこには空は描かなかった。描けなかったのである。形がないものは遠近法では処理できないのだから。そこで彼は、空にあたる部分には磨いた銀を貼って、そこに現実の空ゆく雲の鏡像を映して対処した。しかしこの不可能事にあえて取り組んだのが、ブーダンである。空の上の雲の姿と、画布に描かれた雲とが全く重なり合うように同一のものとして描けるかというと、そもそも無理である。しかし、瞬時に変化する雲の形を瞬時に描き、そしてまた同時に、その変化する様を筆致によって表現することも、ある程度できるだろう。それによってブーダンの雲のかすかな動きがもたらされる。ブーダンが雲を描いた遥か以前に、東方の山水画家達も、水蒸気の立ち上る風景を描いたが、彼らの描法、たとえば溌墨のような技法がブーダンら十九世紀の風景画家のタッチに似ていることは偶然ではない。対象の輪郭を書きとどめることが不可能な雲や靄だが、輪郭のない対象も、その動きは筆の動きによってどうにか表現できる。

中国では早くから主要な画題だった水や水蒸気だが、(レオナルドは例外的に早いが)ヨーロッパでも十九世紀には流体への関心は強まってゆく。それはやがて雲や水蒸気というだけでなく、エーテルや電磁波、放射線といった目に見えない流れへの興味となって、固体だけが唯一の確固たる存在だった時代が過去になってしまう。芸術活動が(常に、とまでは言えないが)科学や思想を先駆けるものとして見えるときがあるが、ブーダンの淡い雲も、流体や不定形のものへの後世の関心を先取りしていたのかもしれない。

図版:ウージェーヌ・ブーダン《夕暮れの浜辺》1865年(米、メトロポリタン美術館)