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#319

人為のそとがわ2
― 下村 泰史

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(2019.8.4公開)

この2月に、京都芸術学舎で「指一本で音楽を作り、世界に発信する方法」という講座が開かれていた。これは電子音楽家の脇坂明史先生をお招きし、電子音楽の歴史を学びながら、スマートフォンやタブレットの画面上でシンセサイザー・モジュールを組み立て、実際に音楽を作ってみる、というものであった。ユニークな作品が多く生まれ、大変おもしろかったのだが、その講義の中で紹介された動画にこういうものがあった。

これは、著名なテクノ音楽家、ジェフ・ミルズ氏が、ローランド社のドラムマシン「TR-909」を演奏している様子である。パラメータを操作し驚くような手際で、どんどん音楽が姿を変えていく様子に驚かされる。

脇坂先生によればこのTR-909という機械は、発売当初は評価が低かったらしい。二束三文で投げ売りされたこともあったようだ。それが黒人たちの音楽コミュニティによって再発見され、彼らによる新しい音楽に不可欠の機材になっていく。今ではその筋では伝説的な名器であるようだ。だが、こうした使われ方は開発側はまったく考えていなかったという。

音楽の話しばかりで申し訳ないが、今度はエレクトリック・ギターの話である。新旧いろいろなデザインと機能の楽器が無数にあるこの世界であるが、レオ・フェンダー氏による「フェンダー・ストラトキャスター」と、テッド・マッカーティ氏による「ギブソン・レス・ポール」の2つが、その原型になっているということはよく言われることである。原型になっているだけでなく、それぞれ半世紀を超える歴史を持ち、完全にスタンダードな名器として数多くの音楽家と聴衆に愛されている。

これらは主にロック・ミュージックにおいて使用され、著名なものとなっているのだが、よく考えるとその歴史はロックの開闢期とほぼ同時というか、それより前だったりする。

ストラトキャスターは、当初カントリーの分野で人気を博したという。しかしその後人気は低迷する。革新的な奏法を数多く生み出したジミ・ヘンドリックス氏が使用し、楽器としての可能性を提示したことで、再評価されその地位を確立したという。高い演奏性と音色の多様さから、激しいロックだけでなく、むしろファンクやポップスでも幅広く使われるようになり、エレクトリック・ギターの代名詞的な存在になっていった。

レス・ポールも、ジャズ音楽家のレス・ポール氏の名を冠し、そうした利用のために設計されたが、この空洞を持たないギターはジャズではあまり使われず、人気も一時期低迷していたのを、ハード・ロックのギタリスト達がそのパワーに注目し、歪ませたときの音の質感が素晴らしいということが評価されるようになって、ロック界で不動の地位を占めるようになっていく。

これらに共通しているのは、デザイナーの意図を裏切る形で利用され、それが定着していったということである。それらのデザイン意図は、創造的なユーザーによって「読み替え」られ、別の文脈に置かれたことで、当初の意図とは異なる意味を持つようになった点では共通している。

だが、どんなものであっても創造的なユーザーによって新たな意味を与えられるわけではないのだろう。それが隠し持っている可能性、デザイナーも意識しなかったような可能性が、見出される場合に限られるのだと思う。多様な意味を持ちうる素地のようなもの。これはどのように生まれるのか。これがデザイン可能なものなのか、たまたま生まれてしまうものなのかは、ケース・バイ・ケースなのかもしれないが、考えると面白いように思う。

ストラトキャスターについていえば、これはかなり特殊なデザインで、ギターの再発明といってよいような楽器である。2枚の板切れからなる簡素な構造や、ピックアップやブリッジがボディに剛結されていないことなどの極めて特徴的な要素が、美しくまとめ上げられている。この高い完成度とオリジナリティをもつ楽器は、強いデザイン意志の結晶であり、ストラトキャスターの成功の一端は、デザイン主導主義にあったと言えるのかもしれない。しかし、それへの支持はデザイナーの当初の意図とは異なるところから寄せられたわけだ。ほぼゼロから作られたまっさらさが、いろいろな可能性の「余地」を生み出したのかもしれない。

一見伝統的な形をとっているように見えるレスポールでは、その見出されるべき「余地」はどのように生じたのか。TR-909の場合はどうだったか。

芸術作品は、もともと多様な読解に開かれているものである。もちろんファイン・アートにおいても作家のコンセプトというものはあるし、それについて論じることはできる。だが同時に、作品そのものがどのようにあるのか、どのような意味を見出しうるかについては、さまざまな意見を持つことができるし、それについて意見を交換することはその作品への理解を通じて、作品そのものの存在を深めるものになるだろう。限定的な意味しか持ち得ないか、多様な読解を可能にしうるものかどうかは、その価値を考えるうえで結構大事なもののように思われる。多様な読解が可能な作品について言えることがあるすれば、どこか見知らぬ未知の部分、謎の部分を持っているということだろう。そこをどう見るかによってさまざまな見方が可能になってくる。

それに対してデザインの成果物(つまり身の回りにあるさまざまなモノやコト)においては、そうした何通りもの意味あいを持つことはあまり多くないだろう。用途が明確であることがほとんどだし、ちゃんとデザインされたものであれば明確なコンセプトがあり、またユーザを拘束するものになってくる。

ユーザの自由度が高いデザイン、というのは論理的に可能なのだろうし、そうして生まれる優れた道具も数多くあると思う。ただ、「創造的誤読」のような使われ方を可能にするのはそうした自由度のデザインだけではないような気がするのである。何か「余地」とか「謎」の部分を多くもったプロダクトが、異なる文化的な文脈に置かれたときに(たとえばカントリーからサイケデリックなロック)、そうしたことが起きることがあるということは言えるのかもしれない。

最後にもう一つ動画を紹介したい。大正琴という楽器がある。おじいさんおばあさんの趣味の楽器というイメージがあるが、大正琴は日本人がゼロから作り出した唯一の楽器であるらしく、よその国に伝わると思わぬ使われ方をしているようなのである。

日本では想像もしなかったような使われ方である。indian banjoと呼ばれているようだから、国際的にはインドの楽器だと思われているのかもしれない。これも異なる文脈に移し替えられて新たな意味を持つようになったものの例である。そしてこれは大正琴の開発者はまるで想定していない事態だったろう。

ずいぶん前になるが、「人為のそとがわ」というタイトルでこの「空を描く」のコラムを書いたことがあった(https://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/essay/6794/)。それは、「つくる」という人間的な行為の中に、いろいろな形で制御し得ないものが介入していることを主題としたものであった。造園における自然のこと、音楽のこと、コンセプトを作る時点でノイズとして除外されてしまうもののことなど、けっこういろんなことを書いた。とはいえ、それらは「作る」過程のただなかの出来事についてのものであった。

今回書こうと思ったのは、モノやコトが生み落とされた、その後のことだ。これはデザインや芸術の「後日談」なのだろうか。むしろユーザの手に取られてからの、デザイナーの支配の及ばない場面に入ってからのモノやコトの付き合いが、それらに意味を与えたり、育てたりするのではないか。

ある文脈に置かれたときに、作り手が想定していなかった部分が可能性として活かされ始める、ということがある。これは「作る」デザイン論からは論じにくいテーマではある。しかし人間の創造的な営為のゆくえを考える芸術教養の立場からは当然検討されていいものだろう。

モノやコトは、人との関わりの中でどのように生きられていくのか。眼を凝らし耳を澄ませば、そこには未知の顕れがあるのだと思う。芸術教養の眼は、それを感知していくものなのだと思う。