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#296

荒井寛方の画業(2)-画業の深まりと特質について
― 三上美和

図2《鬼子母》全図及び部分図、昭和11年(1936)、さくら市ミュージアム―荒井寛方記念館-蔵

(2018.12.02公開)

みなさん、こんにちは。芸術学コースの三上です。外苑の銀杏並木が見ごろになったと思ったら、早いもので今年もあとひと月。少しずつ寒くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

これまで日本画家荒井寛方(1878-1945)について、原三溪との関わり、初期の画業の紹介と、二回にわたって見てきました。今回はこれまでのまとめとして、寛方が画業を深めていった様相を作品から確認し、寛方という画家の特質を改めて考えてみたいと思います。

寛方の生涯は、前回も触れたように、大きく以下のように区分されています。明治後期から昭和戦前期という寛方が過ごした時代は、近代を迎えた日本画が大きく変遷を遂げた時代と重なっています。初期には一世代前に活躍していた水野年方の影響を受けていますが、そこから自身の資質にあった方向性を探っていくことになるのです。
「作風の変遷」
1)20代 明治32-34年頃:手習い、水野年方門下で修業を重ねる。
2)30代 明治35-45年頃:國華社時代、古名画の模写。官展へ出品。
3)40代 大正3-15年頃:渡印、インド風の作品制作。
4)50代 昭和元―14年頃:古典回帰。
5)60代 仏画を主として制作。

上記「作風の変遷」の(1)にあるとおり、歴史風俗画を得意とし、浮世絵の流れをくむ日本画家、水野年方(1866-1908)に学んだ寛方は、ここで人物を中心とした修業を重ねます。同門の鏑木清方(1878-1972)は、人物画、中でも美人画のジャンルを確立し、同時代の京都で活躍した上村松園とともに美人画の名手として知られています。後述するように、年方の下で人物を描く基礎を身に着けたことが、のちの仏画制作にも大いに役立つことになります。

ここで初期の代表作《竹林の聴法》(三溪園蔵、図1)を紹介します。本作品は、上記の「作風の変遷」(2)の30代で制作されました。この時期の寛方は、國華社という出版社に勤務し、雑誌に紹介するための古美術の名品の模写をしていました。國華社は明治22年に岡倉天心たちが創設した日本初で最古の古美術研究雑誌『國華』の刊行により、日本美術史研究草創期において重要な役割を果たしています。ここで寛方は古美術の名品、中でも優れた仏画と出会い、仏教主題を生涯模索していくことになります。

図1 荒井寛方《竹林の聴法》明治44年(1911)、三溪園蔵

図1 荒井寛方《竹林の聴法》明治44年(1911)、三溪園蔵

この《竹林の聴法》は明治44年(1911)の第5回文展に出品された作品です。釈迦自体は描かれていませんが、釈迦の説法をうやうやしく聞く人々のみを落ち着いた色調で描き、厳かな雰囲気を醸し出すことに成功しています。

本作品は寛方の支援者であった原三溪に購入され、現在三溪園に所蔵されています。今年は三溪生誕150年の記念の年に当たり、それを記念した同園の三溪記念館の特別展で3年ぶりに展示されました。私も久しぶりに本作品をじっくり見たところ、本作品にはその後の寛方の作風の片鱗が見られるとともに、作品としても実によくまとまっており、改めて初期の代表作だと実感しました。

その理由を考えてみますと、まず、前回紹介した《温和》(1901年、個人蔵)で確認したような初期の風俗画から、一歩進んだ様子が見られることがあげられるでしょう。本作品のような大画面に多数の人物像を配する構成は、当時の文展でよくありがちなものだったため、本作品はまだ初期の風俗画表現から脱していないとも評されています。しかしながら、寛方はすべての人物を均一に描くのではなく、左画の画幅ともに手前の女性を中心的に描き、それ以外の人物も強弱をつけ、画面にメリハリを与えています。

また、右幅の画面上方の人物像にはやや弱さも垣間見えるものの、右幅、左幅いずれも画面下に配された目元と口元に微笑を浮かべる女性の表現には、のちの寛方の描く仏画にも共通する個性が表れているのです(図1部分参照)。

図1竹林の聴法(部分)

図1竹林の聴法(部分)copy

ここで改めて一歩引いて画面全体を見てみますと、主題の竹林を左幅の上に象徴的に描き、人物も含め淡い色調で統一することで、厳かな雰囲気を作り出しています。これらのことから、本作品は寛方にとってのちの作風につながる個性が表れた記念碑的な作品と言えるでしょう。

その後、既にお話ししてきたように、院展に出品した《乳糜供養》で高い評価を受けた寛方は、インドのタゴールの邸宅に滞在し、インドの人々に日本画を教え、さらにアジャンター石窟寺院の模写の仕事も行っています。こうした経験はもちろん制作にも影響を与え、「作風の変遷」(4)のインド風の作品制作へとつながっていきます。

図2鬼子母神全図 (1)copy

図2《鬼子母》全図及び部分図、昭和11年(1936)、さくら市ミュージアム―荒井寛方記念館-蔵

図2《鬼子母》全図及び部分図、昭和11年(1936)、さくら市ミュージアム―荒井寛方記念館-蔵

次に紹介するのは、インド風の作品から次第に独自の仏画表現へと展開していった昭和11年(1936)、第1回新帝展に出品された《鬼子母》(図2)です。「作風の変遷」(5)に当たる50代の作品であり、子供をさらって食らう悪鬼を大画面に堂々と描いたこの時期の代表作です。

右手に鬼子母神のシンボルとされる石榴(ざくろ)を持ち、左手には子供を抱いています。子供の安心したような表情とそれを見つめるようなまなざしの鬼子母神(図2部分参照)には、母と子の情愛も感じさせます。本作品からよくうかがえるように、寛方の描く仏画には、血の通った人間らしい温かみが感じられます。ここから、寛方はこうしたリアルな人物表現を初期の修業時代に得して以来、次第に深めていったことがわかります。

以上のことから、寛方は、歴史風俗画から出発して以来の人物画研究を基礎として、そこにインド絵画、仏画の研究成果を加えながら、次第に表現を深めていったと言えるでしょう。

生涯を通じてその資質にふさわしいテーマと出会えるかどうかは、画家にとって極めて重要な意味を持ちます。風俗画を学ぶことで人物を描く基礎を築き、そののち、それを生かせる仏画というテーマを得たことは、寛方にとって幸運なことでした。

一方、三溪との出会いもその後の寛方の画業に大きな影響を与えました。私が寛方に関心を抱いたのは、そもそそも三溪との関わりがきっかけでしたが、今は明治から昭和戦前まで、仏画において個性的な表現を探求した寛方とその作品についてもっと知りたいと思っています。仏画という近代絵画ではあまり追及されてこなかった画題に果敢に取り組み、文展、院展という日本画の画壇の中枢で活躍した寛方について、これからも検討を進めていきたいと思います。

寛方は生涯にたくさんの作品を描きました。ここで紹介したのはそれらのごく一部に過ぎませんが、画業の画期となった代表作ばかりですので、それらから寛方の魅力を少しでも感じていただけたら幸いです。そして実物に接する機会があれば、線や色の使い方などを間近で見て味わってください。その際、これまでの私の言葉は一度忘れて自由に鑑賞していただき、それから私の書いたことが本当かどうか確認してみてくださいね。

なお、本稿では取り上げませんでしたが、実は京都造形芸術大学外苑キャンパスのすぐ近くにも寛方作品を見られる場所があります。それは明治神宮外苑聖徳記念絵画館で、寛方は全80点の壁画のうちの1点《富岡製糸場行啓図》(1933年)を描いています。《鬼子母》の三年前に描かれたもので、「作風変遷」(5)の50代の作品です。制作上たくさんの制約があったはずですが、本稿で指摘した寛方の特質もよく感じられる優れた作品です。同館は通年で公開されていますので、ぜひ訪れていただければと思います。

参考文献:「荒井寛方 仏画の魅力」展図録、ミュージアム氏家、2002年
「さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館-第93回企画展 荒井寛方名品展―郷土に伝わる名作―」展図録、2016年

図版典拠:図1「院展作家の一系譜 三溪園に集った画家たち」展図録、三溪園、2003年
図2「荒井寛方 仏画の魅力」展図録、ミュージアム氏家、2002年
「さくら市ミュージアム-荒井寛方記念館-第93回企画展 荒井寛方名品展―郷土に伝わる名作―」展図録、2016年