(2018.11.18公開)
先日、高知に行き、初めて坂本龍馬の銅像に対面した。思ったよりも大きく、桂浜を望む高台にそびえ立つ姿は凛々しいものがある。
近年、春と秋に「龍馬大接近」と題したイベントが行われており、龍馬像を真横から間近に眺めることができる。仮づくりの足場を登り、龍馬の目線と同じ高さで、その眼差しの先にある黒潮の流れる太平洋を眺めていると、まさに大らかな心持になる。
この龍馬像が建てられたのは、昭和3(1928)年のこと。今回は銅像が建てられた経緯について考えてみたい(注1)。
この龍馬像を建てることを思いついたのは、入交好保(いりまじり よしやす/1903~1996)という人物である。入交という名字も珍しいが、この銅像を建てた経緯を知るとその破天荒さが際立つ。
入交は高知県香美郡田村(南国市)生まれで、子どものころ、皇后(明治天皇の妃・昭憲皇太后1849~1914)の夢枕に立ったといわれる坂本龍馬の話を親から聞き、その存在を知ったという。
その後、入交は早稲田大学に入学。学生の身分の気ままさから、土佐の偉人、龍馬の顕彰をしたいと思い立った。そこで当時、京都帝国大学の学生であった、土居清美、信清浩男、朝田盛らとともに、県下のみならず全国の青年や有志に呼びかけ、日本一の坂本龍馬の銅像を作ろうと決意したという。21歳のことであった。
ちなみに皇后(昭憲皇太后)の見たという「夢」については、司馬遼太郎も取り上げており、ご存じの方もおられるだろう。
当時は『時事新報』など新聞でも取り上げられて、世間に広まった。かいつまんで経緯を述べるならば、日露戦争の開戦前夜、その心配の念から、気をめいらせて葉山御用邸で静養されていた皇后の枕元に、白装束の武士が現れ、坂本龍馬であることを告げたうえで「必ず帝国海軍を護る」と述べたという。
その後、皇后はこの話を側近に話し、写真によって坂本本人であると確かめられたのだ。
この一件以来、龍馬に関する事績が様々に関心を持たれるようになり、幕末以後、約30年近く廃業していた京都伏見の寺田屋が復興することにもつながったという。その経緯は、中村武生『京都の江戸時代を歩く』(文理閣、2008年)に詳しいが、実はその背景を知る手がかりの一つが、入交が幼少時に聞いたという「皇后の夢」なのである。
『国母陛下の御瑞夢 附大和魂』(明治37(1904)年発行/編集者 寺田伊助 発行所 吉川弘文館)という唱歌本がある(注2)。
「国母陛下の御瑞夢」の作歌(詞)は宮内省御歌所録事の加藤義清。作曲は学習院教授、華族女学校教師納所辨次郎である。その歌詞第2章には、「名島の磯にゆきかよふ 千鳥のこゑの更け渡る よるの大殿(おとど)の御座近く 白衣(ひゃくえ)の武士(もののふ)のひれふして いとおごそかに申す様 微臣は坂本龍馬なり」と、まさに「皇后の夢」である。
くわえて、この唱歌とともにつくられた『大和魂』(作歌(詞)荒木英一[加藤義清訂正]、作曲は納所辨次郎)という唱歌の歌詞4番には「しるやしらずや人の世よ 斃れて三十八年の 後にも忠魂現せる坂本龍馬その人を」、また5番には「斃れてのちもなほやまぬ 楠公と龍馬氏を 義勇奉公忠臣の 龜鑑(かがみ)とあふけ 世の人よ」とあり、楠木正成と坂本龍馬が同列に扱われている点は注目に値する。
中村武生によれば、この唱歌の歌詞をつくった荒木英一は、寺田屋7代目伊助の義弟であり、この唱歌本自体の編集者こそ、寺田屋の7代目伊助なのだという。
現存する寺田屋は、実は鳥羽伏見の戦いで焼け、再建されたものであることは、先述の中村の著作に詳しいが、この「皇后の夢」を機会に、寺田屋を再興する動きが活発となる。
例えば荒木が寺田屋所蔵の龍馬の遺品を皇后の台覧に浴するべく東京に持っていくなど、背後に薩摩閥も絡みつつ、寺田屋再建と「皇后の夢」は密接な関わりがうかがわれるのだという。
いずれにせよ、この「皇后の夢」の一件から、当時無名であった坂本龍馬は、天皇を支える忠義第一の臣となっていくのである。
さて、龍馬の銅像建設活動に話を戻すと、やはり一介の学生の活動は、最初は顧みられなかったようだ。
しかし、入交はその献身的な活動により、逆境をはねのけていく。当初は募金活動の核として、土佐出身の岩崎弥太郎ゆかりの三菱や岩崎家に依頼を試みるが、一切受け付けられなかった。
そこで次に高知県の財界人、野村茂久馬に直談判し、坂本龍馬先生銅像建設会会長を打診、快諾を得る。
そして土佐閥の重鎮であった伯爵田中光顕に面会を請うた。田中は幕末、尊王の志士として活動、中岡慎太郎の陸援隊にも幹部として活躍した。坂本、中岡の暗殺に際しては、まっさきに現場に駆けつけて、中岡からその経緯を聞き取ったという逸話を持つ。
静岡県蒲原の宝珠荘に隠棲していた田中のもとを訪れた入交は、銅像建設の意義を伝えた。田中は入交の義挙を喜び、その協力を取り付けたのである。
こうした活動のおかげで募金活動も進み、ついに目標の2万5千円を集めて、昭和3(1928)年5月27日、桂浜に龍馬の銅像が立つのである。くしくもその日は海軍記念日であった。
この銅像を製作したのは、彫刻家高村光雲に師事し、戦前において数多くの銅像を手掛けた本山白雲(1871~1952)。
高さ5.3m、台座をふくめて13.5mの威容は、冒頭で述べたようにまさに日本一の龍馬像にふさわしい。
本山の作品には、ほかに後藤象二郎像(明治36年・芝公園)、西郷従道像(明治42年・海軍省)、山内一豊像(大正2年・高知城内)、板垣退助像(大正2年・芝公園)、板垣退助像(大正14年・高知城内)、中岡慎太郎像(昭和10年・室戸岬)、伊藤博文像(昭和11年・国会議事堂横其他)など枚挙にいとまがない(注3)。みな明治維新の功労者や元勲ばかりである。
ただし、これらの銅像は、日中戦争以降の金属不足を解消するための「金属類回収令」により、「銅像等ノ非常回収実施要綱(案)[1943.3.5・閣議決定]」に従って選抜され、回収・溶解された。
そのため現存する本山作品は多くない。そうした意味で桂浜の龍馬像は、本山の貴重な現存作品といえる。
ちなみに、この龍馬像と中岡像は戦時の供出を免れたが、それぞれが海軍、陸軍の「祖」として位置づけられたからという説もある。しかし、京都円山公園の龍馬と中岡の銅像は供出されており、ほかになんらかの理由があると考えられる(注4)。
さて銅像建立後の入交はというと、地元高知の労働運動などに関わったのち、満州で実業家として活躍した。戦後は高知に帰郷し、衆議院選挙に出るが落選。その後は実業家として活動し、高知の発展のために寄与した。そして1996年、93歳でこの世を去った。
皇后の夢枕に立った龍馬。明治150年のいま、桂浜に立って、何を想っているのだろうか。なお、さる11月15日は龍馬の誕生日であり、また暗殺された忌日でもある(注5)。
(注1)入交好保「桂浜の竜馬先生の銅像について」『土佐史談』170号、土佐史談会、1985年
(注2)「国文学資料館 近代書誌・近代画像データベース」
http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00056.html#1(2018年11月15日閲覧)
(注3)「本山白雲」「東京文化財研究所 物故記事」
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8806.html(2018年11月15日閲覧)
(注4)1943年3月5日閣議決定の「銅像等ノ非常回収実施要綱(案)」には、
一、回収ノ対象ハ銅像(胸像ヲ含ム)及銅碑トス但シ左ニ掲グルモノハ之ヲ除ク
(イ)皇室、皇族、王族ニ関スルモノ及神像
(ロ)仏像等ニシテ直接信仰ノ対象トナリ又ハ礼拝ノ用ニ供スルモノ
(ハ)国宝又ハ重要美術品ノ指定アルモノ
(ニ)特ニ国民崇敬ノ中心タルモノ
二、第一項但書ニ依ルモノノ認定ハ別途中央ノ委員会(商工省ニ之ヲ置ク)ニ於テ之ヲ行ヒ、其ノ重要ナルモノニ付テハ閣議ノ採定ヲ経ルコト
とあり、個々の事情により選択の余地があったことが分かる。
「国立国会図書館 リサーチナビ」https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00452.php(2018年11月15日閲覧)
(注5)坂本龍馬は天保6年11月15日(新暦1836年1月3日)に生まれ、慶応3年11月15日(新暦1867年12月10日)に暗殺された。