(2018.07.22公開)
先日、実家の物置を整理していると紅鉢(べにばち)が出てきた。紅鉢とは、元々は化粧に使う紅を捏ねるための器を意味するが、後に擂鉢形をした容れ物を広く指すようになった。太平洋戦争が終わる頃まではどこの家庭でも見られた生活用具の一つである。
わたしが育った岐阜県東濃地方では、近くにある愛知県瀬戸市で製造された陶製の紅鉢が主に用いられた。サイズは、丼から大形の擂鉢程度まで、一般的に小・中・大とあり、その口縁は衝撃から守るために外側へ向けられて丸く折り返されている。クリーム色の胎土にやや黄色味を帯びた透明釉が掛けられ、数か所に施された織部釉の緑が意匠上のアクセントになっている。
わたしの父や母も幼少期に使った紅鉢。しかし、戦後になると軽くて壊れにくく、しかも廉価な金属製やプラスチック製の容器が急速に普及したために、いつの間にか忘れられた存在となり、畑の隅に打ち捨てられたり、家の軒先や庭で植木鉢として転用されたりした紅鉢をわたしはこれまでにあちらこちらで目にしてきた。
本来の居場所である台所や洗面所から他所へと移された紅鉢は、もはや道具ではなくゴミのように見えたが、焼きものを生業にしていた父にとっては価値をもつものであったらしく、我が家では廃棄処分ではなく物置に片付けられることになった。今、あらためて考えてみれば、民藝運動を主導した柳宗悦が述べている、生活に寄り添った芸術として、この紅鉢も評価できる。
ただし、民藝の芸術論を持ち出すまでもなく、時代遅れの生活雑器である紅鉢を父親が廃棄しなかった理由は明らかである。それは、職人の手が轆轤(ろくろ)を用いて成形し、登り窯で焼成したという、手工芸品としての素性の確かさだ。ちなみに、今でも同じような紅鉢が瀬戸市で生産されてはいるが、当時と全く同じ技法によったものであるのかは不明である。いずれにしても、技術的には可能であるが、過去と同様の製法に従うと高価になってしまうため、採算が合わない。それ故に古い紅鉢には資料的な価値もそれなりに認められよう。
図らずも手にした件の紅鉢であるが、その用途をいろいろと考えて楽しんでいる。水を張って家庭菜園で採れたトマトやキュウリを入れて冷やそうか、あるいは金魚鉢にすることもできる。この炎暑の折に、なんと風流なことか。一年を通して活躍する道具には戻れないとしても、使い方、時期を考えればまだまだ現役で良い働きをしてくれそうだ。