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アネモメトリ -風の手帖-

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#272

動物を見る、動物を食べる
― 大辻都

動物を見る、動物を食べる

(2018.06.17公開)

先日、はじめて京都市動物園に足を踏み入れた。暑いぐらいの昼下がり、象や虎など檻のなかの動物たちは、一見すると注がれる人の視線を気にもとめないそぶりで、思い思いに過ごしている。動物を見るのは大好きなので久しぶりに観察を楽しんだが、訪問の目的はイヴェントとしておこなわれたオランダのドキュメンタリー映画『あたらしい野生の地 リワイルディング』上映のアフタートークを聞くことだった。
2013年に作られたこの映画の舞台は、大都市アムステルダムから50キロほどしか離れていない自然保護区オーストファールテルスプラッセン。国土の3割が海面より低いオランダは、歴史的に干拓事業と切り離せない国であったことが知られているが、この場所はその例に漏れず、開発を見込んで造成されながら資金繰りの失敗で放棄された土地である。映画では人のいなくなったこの土地がふたたび野生化し、さらに人の手で放たれた動物たちの居住地となり、半世紀ほどが過ぎた現在、草原と化した自然環境のなかみごとに生態系を取り戻した姿が映し出される。
昆虫、鳥、魚、哺乳動物などさまざまな生き物のなかで主役を務めるのはコニックという原種に近い馬だ。当初27頭放たれたコニックは瞬く間に1000頭を超えるまでに増殖する。もちろんこの地のすべての生き物は、まったき自然環境のなか厳しい生死のサイクルを受け入れ世代交代をおこなっている。オーストファールテルスプラッセン保護区は、人間により開発し尽くされた土地がみずからウィルダネス――動物を含めた自然――を回復しえた事例として今後の世界を考えるうえで注目に値する。
さらにこうしたテーマが動物園という場で上映され、語られることはなおさら興味深い。動物園とは、近代に誕生し今の人間社会を形作っているさまざまな制度のひとつである。世界各地に生きる野生動物たちをひとところに集め、檻に入った姿を人間たちが観察し楽しむ。元来その目的は子どもたちへの教育にあったというが、今もその要素は大きいだろう。最近では、狭い檻に閉じ込めるという従来のスタイルから、より広く自由な環境に置くスタイルの動物園が増えており、自然に近い状況で動物たちを観察できるようになってきてはいる。しかし、動物園という場が人間のために設けられ、動物と人間の間に厳然とした境界を引いているという状況に変わりはないだろう。
エコロジーへの意識は、現代では誰もが多少なりとも身につけているが、ここのところ動物をその一部として捉え、動物やその生をどう扱うかの根本的な議論が起こり始めている。それはつまるところ、人間を動物との関係でどう位置づけるかの議論でもある。動物園は動物を観察の対象とする場だが、一方で私たち人類は動物を食料ともしてきた。殺された豚、牛、鶏などを調理し食べるという習慣は世界中で日常的におこなわれていることである。
少し前から学生たちと読んでいる、フランスの哲学者ドミニク・レステルによる『肉食の弁明』は、倫理に基づくヴェジタリアン=ヴィーガンを「仮想敵」としつつ、肉食の意味を根底から考えた哲学エッセイである。レステルの主張をひと言でまとめれば、自然においては人間だけが特権的な存在なのではなく、人間を含めすべての生き物はたがいに不都合を与え合いながら生きているのだから、他の動物の肉を食すのは間違いではないということだ。著者によればヴィーガンらの行動は、動物を愛すると言いながら人間と動物の間に明確な線を引き、人間のみを優位に置いたものだという。
議論の是非はともかく、本書にまとめられたヨーロッパにおける菜食主義の歴史は面白い。ピタゴラスは動物を食すことを禁止したが、それは輪廻転生の観点からであり、この数学者は肉食をすなわちカニバリズム(人肉食)と見做していたという。キリスト教における肉食の是非は、かならずしも意見の一致を見ない。肉を神の恩恵ととる考えがあるかと思えば、テルトゥリアヌスなどは淫蕩のしるしと見て嫌悪し退けた。マニ教徒もまた肉を邪悪なものと考えている。ルネサンス時代にあっても、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチは口を「あらゆる動物の墓場」と呼び、滅多なことでは肉を食べることはしなかった。
同じ肉食の拒否にしても、理由はさまざまにあるものだ。じつは私も成人する頃まで、食卓に上るすべての肉から解体された死体としての獣を連想してしまい、口にすることができなかった。こうした心理的理由での拒否はプルタルコスと同じである。
現代でも、心理的理由のほかに健康上の理由や美的な理由などによるヴェジタリアンは多い。しかし人間と動物の位置関係を問題にするレステルの関心は、倫理的理由によるヴェジタリアンにしかない。そこを除けば、レステルの立場はむしろ多くのヴェジタリアンに近く、肉食を肯定してはいても、「いのちをいただく」という言い方があるように、際限のない美食や飽食には批判的なのだ。
挑発的とも言えるレステルの主張に対し、性差別や人種差別を肉食とのアナロジーで捉え反論する学生もいる。議論が盛り上がるのはいいことだ。私自身は、若い頃とは一転、牛肉や豚肉や、それだけでなく鮪や鰻の美味しさを知り、また食べると自分に力が湧くのを感じており、今後は菜食を選ぼうという気には今のところならない。古代ギリシア以来人間優位の思想を持つヨーロッパの文脈から離れた日本人の感覚からすると、そこまで原理的に考えなくてもとも思う。
だが動物とは何かという新しい議論の前で、知らん顔で居直れない心地悪さを感じることも事実である。というのは、もはや自然任せでいては立ち行かない未来の世界をデザインするにあたり、こうした考えは根幹に関わってくるだろうという実感があるからだ。議論はまだこれからも続いていく。