(2016.02.28公開)
うどん屋さんの看板が好きなことは前に書いた。その堂々とした太っ腹な文字を見ていると、本当に頼りがいを感じる。とりわけ寒い夕暮れ時なんかには効果覿面だ。暖かそうな出汁の匂いが加わると、もう、うどんに身も心も巻き取られてしまう。
ところで、それとは反対に、やや不安な感情を引き起こすものがある。それが薬屋の店先だ。といっても「くすり」とか Pharmacy とか緑の十字などではない。それらはやっぱり不安というより、安心のほうだろう。しかし、薬屋さんには、しばしばそんな衛生的な安心感とは別物の、気になる惹句を貼り付けたショウ・ウィンドウを持つ場合がある。
それはまず何よりも病名や症状の列挙である。「頭痛」「肩こり」「めまい」「疲労」といったありがちな症状が大きく記されて貼り出されていることも多いし、「風邪」「下痢」「ぜんそく」「不眠症」などもよく見かける。大概は手書きか家庭用プリンターで印字された手作り感あふれるもので、その点ではPOP(point of purchase)広告に近い。貼り紙の種類はまだまだたくさんあって、「水虫」「いんきん・たむし」「聴力低下」「耳鳴り」「精力減退」「物忘れ」「不眠症」など、枚挙に暇ない。
薬屋には、書店や雑貨店のPOP広告と同様に商品のすぐそばに効能や価格を訴えるPOP広告もある。しかし薬屋の店先の貼り紙には、それらと明らかに違う特徴がある。それは、POP広告が商品名や作者名を訴えるのに対し、全くと言っていいほど薬品名も製薬会社名も出てこない点である。それらはただ症状を列挙するだけである。これは一体どうしてだろう?
それにはまず何よりもプラクティカルな理由がある。商品名を書かないのは、薬の名前が貼り出してあっても、それが一体何の病気に効くものか、すぐにわかる人間はおそらく稀だからだ。まず自分の健康状態に気づいてほしい、ついでそれに応じて相談に乗ろう、というわけだ。
他方で、ひょっとしたら善意、あるいは社会的使命感もあるかもしれない。たとえばしばしば注意・警告してくれる貼り紙がある。いわく、「いつまでも若くありません」「金よりも命を惜しめ」。人々の健康と暮らしの安寧を気遣う薬屋さんからの忠告だろう。
さらに勿論、商売上の動機も考えられる。恐怖心をあおって誘い込もうという狙いではあるまいか。人目に着くよう、軽重さまざまな症状が店先に並べ立てられる。人間誰しもどこかに不調を抱えているものだ。あれやこれや、たくさん挙げられている症状を見れば、きっとそのどれかに思い当たる。そこで不安に駆られた人は自ずと足を留める、という算段だろう。
上の理由はそれぞれにたぶんある程度は当たっているだろう。商売である以上は少々どきりとさせてでも客を招かなくてはならない。とはいえそれは人の不幸を願って商売しているわけではなく、世の災厄を何とか減らそうという義侠心からでもある。しかしそれだけでは、薬屋店頭の過剰とも言える文字の氾濫の効果を十分に説明し切れていないような気がする。さらにもうひとつ、薬屋の店先が賑々しく病気を貼り出している理由があるのではないか。
それはまさにその賑々しさの効果に関わる。義侠心にも親切心にも近いものだが、むしろ「おせっかい感」だ。「おせっかい」は大概は面倒なもので、普通はあまり歓迎したくない。しかし体調が衰えている時には、自分で自分の心配をするのも辛気くさい場合がある。何となく不安だし、辛いのだが、医者に行くのも億劫だ。そんなとき、赤の他人ながらも薬屋さんがあれやこれやと気遣ってくれる。しかもただの他人ではなく、ちゃんと効き目のある薬を取りそろえてくれている。饒舌に語りかける薬屋の貼り紙は、消極的な病人にかまってくれるお世話好きの隣人のようなもので、それは公徳心の発揮や商業上の勧誘とはまた別の、弱ったときに頼れる相手の存在を示してくれる。「もの忘れが気になるかたに」「夜のお付き合いが多い人に」「二日酔い、死ぬほどの疲れ、徹夜もOK」などの文句を読むだけで、ああ頼もしい、ここにいたわってくれる誰かがいる、と心安く、すがりたくなる。勿論、薬局には清潔な管理された雰囲気が好ましいという人もいるだろう。しかしまた、病で少々気の弱くなった善男善女のなかには、そんな突き放した衛生施設の冷たい表情が苦手な人間もいるだろう。なかなか健康状態を直視して自己管理するという勇気は持ちにくい。そんなときは、少々うるさいほどの世話焼きな貼り紙が暖かく背中を押してくれる。
それはまるで寒空の下のうどん屋の看板のようだ。