(2017.10.08公開)
東京駅。京葉線地下八重洲口改札をぬけると、掲出の写真を含めて、壁いっぱいに、いくつかの大きなレリーフが飾られている。しかし、誰も気に留める人もいない。
近づいてよくよく眺めてみると、一番大きなものは日本地図のレリーフで、京都をはじめとした観光の名所などが浮き彫りされていることがわかる。
脇に解説板があり、以下のような記載があった。
戦後間もない昭和22年(1947)に進駐軍の鉄道司令部であるR.T.O(Railway Transportation Officeの略)が、東京駅置かれ丸の内駅舎南口改札脇に設置された。
その設置工事中、「進駐軍の目を驚かす意匠を施せないだろうか」という運輸省の建築技術者の声で急遽、東海道や国立公園などの日本の名所旧跡、日本地図を石膏レリーフで表し、R.T.O待合室の壁3面に施した。フランスのエコール・デ・ボザールに学び、日本人初のフランス政府公認建築士(D.P.L.G)の資格を得た横浜工業学校(現横浜国立大学)教授の中村順平(1887-1977)が図案と総監修を行った。
制作には当時新鋭彫刻家の本郷新、田畑一作、建畠覚造、白井謙二郎、北地莞爾、中野四郎らが携わった。東京駅丸の内駅舎の保存・復原工事に伴い、平成24年(2012)に京葉線地下駅に移設した。
実はこのレリーフは第二次世界大戦後、日本が連合国によって占領された記憶をとどめる遺産であったのだ。
1945年8月15日、昭和天皇がみずから詔書を読み上げた「玉音放送」が流れ、国民は暗く長い「戦時」から解放されたことを知った。
そして8月30日、連合国軍総司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur〈1880~1964〉)が厚木基地に到着。9月2日には、戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印式が行なわれ、日本は名実ともに連合国によって統治されるところとなる。
当初、総司令部(GHQ)は横浜に置かれたが、9月8日には、東京第一生命館に本拠を置き、その屋上には星条旗がひるがえった。
この日本占領に際して、米・英など連合国軍の軍人・軍属が当初40万人以上駐屯することになり、その輸送手段確保の観点から、とくに米陸軍の軍事輸送を担う第3鉄道輸送指令部(3rd military railway service Head Quarters)が日本に置かれることになる。
ここからは最近刊行されている連合国専用列車の研究をもとに、連合国占領下の日本の鉄道事情について、概観してみたい(注1)。
3rd MRSと呼ばれたこの組織は、線路の敷設から鉄道運営までをすべて担うことができ、戦地における鉄道業務を担っていた。日本においては既存の鉄道資産が十分に存在していることから、それらを利用することを前提として、軍事輸送を進めることになったようである。
具体的には日本を5つの地区にわけたうえで、主要な駅や軍事施設の最寄駅に鉄道事務所(Railway Transportation Office=RTO)を設けて、実際の輸送業務は日本側、つまり日本国有鉄道に担わせることが決まる。
この連合軍専用列車は、主に国鉄の路線と共用で運用されたが、東京を起点として、北海道から九州、そして韓国プサンへの連絡船など、各地への一般列車とは異なる特別ダイヤが組まれて運営された。
また客車についても特別仕様のものが仕立てられた。とくに一般兵士の輸送ばかりでなく、その高級将校や家族の輸送も担当したため、物資の不足した当時の日本でありながらも、豪華かつ最新式の車両が走ることとなる。
その内容をみると、食堂車はもとより、クラブ・ラウンジ車、展望車などのほか、冷房や水洗式トイレ、シャワーを完備した寝台車など、最新式の設備をもつ客車で、旧日本軍用車両の改造だけでなく、新造されたものも多かったようである。
また当然、軍の司令官、軍団長クラスは専用客車があり、日本占領の中軸であった米第8軍司令官用には、御料車つまり天皇陛下専用の客車を一部利用するなど、際立って豪華なものであった。
そして車体には、戦前の国鉄における一等車の印であった白い帯が付され、この「白帯」が連合国軍専用列車の目印となっていく。また車体の色も、明るい小豆色の「マルーン色」が塗装され、国鉄車両の濃い茶色の「ぶどう色」とは対照的であった。
こうした連合国軍専用列車が、東京から小倉(門司)を結ぶ「Allied Limited」(連合軍特急・夜出発)や東京から博多を結ぶ「Dixie Limited」(南部特急・朝出発)、あるいは東京と札幌を結ぶ「Yankee Limited」(「北部特急・夜出発)といった定期列車のほか、英連邦軍専用の列車「BCOF train」や臨時列車(例えば休暇用の「Rest Camptrain」)などがあり、日本国内を縦走したのである。
当時の国鉄は、戦災による毀損列車も多く、列車編成やダイヤ運営にも苦慮していた。戦後の姿を写した写真を見ても、買いだしや帰還の兵士たちでごった返している列車や駅頭の様子が見て取れる。
それとは対照的に、特別の改札口から専用列車に乗る連合国軍兵士の姿が、日本国民にとって大きな心理的インパクトを与えたことは想像に難くない。
しかし今日、こうした終戦直後からサンフランシスコ平和条約締結(1951年9月8日)までの約6年にわたる「占領」という記憶はほとんど語られることがない(注2)。
その歴史的な研究も十分とは言えない状況であり、この占領軍専用列車にしても学術的なアプローチは今後の課題といえる。
そうした意味で、当時を知る貴重な遺産であるこのレリーフを残した旧国鉄などの鉄道関係者、そして東京駅修復に際して「発見された」このレリーフを、こうして人々の目に触れる場所に展示しているJR東日本の関係者の尽力に敬意を表したい。
歴史とは、今を映す鏡であり、現在の人々が関心のある事柄や意図によって、「選択」あるいは「再評価」されて、共有されるものである。
いまや駅の通路で誰も顧みることのない「R.T.Oレリーフ」の存在は、占領期の日本という事実に対する、現代人の思いを端的に示している。
10月14日は鉄道の日。敗戦と占領という事実のなかで、鉄道関係者たちが抱いた「思い」を、今一度このレリーフから感じ取ってみることは、決して無駄なことではないのではないだろうか。
(注1)河原匡喜『連合軍専用列車の時代 占領下の鉄道史探索』(光人社、2000年)や中村光司『知られざる連合軍専用列車の全貌』(JTBパブリッシング、2015年)など。
(注2)連合国軍総司令部の廃止は、条約発効日の1952年4月28日で、実質的な意味での占領終了はこの日となる。