(2017.06.18公開)
「テン、トン、シャン」という言葉がある。さて、これは何を表すものだろう。続きがあるのでもう少し書いてみると、「シャシャコロリチトン、テン、トン、シャン、チン、テツコロリチトン・・・」というような感じだ。じつは、これは箏(こと)の「六段の調(ろくだんのしらべ)」という曲の旋律を表したものである。箏の音色を真似て、オノマトペを使って旋律を言い表している。「六段の調」は正月になると店のBGMに流れることが多いので、音を聞いてみればこの曲を知っている人も多いことと思う。
さて、私たちは楽器の音に限らず、何かの物音を真似てオノマトペに置き換えるということを日常的に行っている。例えば、踏切の音を「カンカンカンカン」、救急車のサイレンを「ピーポーピーポー」と言ってみたりするだろう。自然の音にも敏感で、風の音一つに対しても「ピューピュー」「ひゅるるる」「ビューッ」などのように様々に言い表す。欧米では自然の音を単なる雑音としか受けとめないようなので、民族によっても音を連想する感性には違いがある。また、「サッと音もなく通り過ぎる」などのように、無音を強調して言い表すための言葉さえある。だから、オノマトペは音のイメージに基づいて物事をデザインした言葉だと言うことができるだろう。
歴史を遡ってみれば、奈良時代の『古事記』に「コヲロコヲロ」とあるのが文献上最古のオノマトペだとされる。これはイザナギとイザナミという二人の神が国を生み出すために潮を槍の先で掻き回す音であるが、何となく神主の祝詞を連想させるから面白い。平安時代の『枕草子』でも、「物につきさはりて、そよろといはせたる、いみじうにくし(長烏帽子が物に突き当たり、がさっと音を立てたのが憎らしい)」などのように、オノマトペを多用する。そして鎌倉時代の『平家物語』には、「むずと組んでどうど落ち(むんずと組んでどうっと落ち)」や、「与一、鏑を取つてつがひ、よつぴいて、ひやうど放つ。(与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引いて、ひょうと放った)」などとあり、合戦の激しさを描くオノマトペが見られる。また、鎌倉時代以降、「愚図愚図(ぐずぐず)」などのようにオノマトペに漢字を当てることが多くなったとも言われるが、これにはオノマトペを用いた表現が直接的で品位が低いと見なされるようになったためという説がある。こうして見ると、オノマトペはその時代の文化を映し出すものと言えそうだ。果たして現代の言葉にはどのような特徴があるのかということも気になってくるが、話を元に戻そう。
芸能の世界では、冒頭に示した「テン、トン、シャン・・」のような楽器の音色を真似たオノマトペを一般に「唱歌(しょうが)」と呼んでいる。実際の音色にそっくり似せて旋律を言い表しているので、これ自体が音楽と直に結びついている。それぞれの仮名に長さと高さの変化を与えて「ふし」として口ずさむと、唱歌は一種の「楽譜」として機能し、演奏を統御していくのである。唱歌は箏に限らず、様々な芸能で幅広く使われてきた。例えば雅楽の篳篥に「チラロヲルロ、タアルラア・・」、能の太鼓に「テレツクテレツク・・」、長唄の大鼓と小鼓の掛け合いに「チリカラチリトト、スットンスタスタ・・」などのような唱歌を用いる。楽器によって使う唱歌が異なり、それぞれの楽器特有の音色を巧みにイメージしデザインしている。だから楽器の種類だけ唱歌があるし、もっと言えば同じ楽器でも流儀によって細かいところが少し違っていたりもする。何か具体的な意味を伝えるような性質のものではないが、繊細なイメージの表現であるからこそパンチが効いていて感性に響き、身体に染み込む。
唱歌をはじめとするオノマトペの豊かな表現を見てみると、そこから日本人の音に対するイメージの鋭敏さが伝わってくる。世界の言語のなかでも日本語のオノマトペの豊かさは際立っていると言われるが、オノマトペには、私たちの内に流れる音感覚の深淵があるような気がしている。