(2016.01.17公開)
瑞兆を示す霊芝雲たなびく気品に満ちた絵葉書。先日、古本市でふと目に留まって買い求めたものである。画面右下にささやかに記された「雪佳」の名から、近代における琳派の継承者として名高い神坂雪佳(かみさか せっか)によって、デザインされたものとわかる。
雪佳は1866(慶応2)年1月12日に京都粟田の士族の家に生れ、今年は生誕150年でもある。鈴木瑞彦に四条派の画法を学び、帝室技芸員岸光景に師事して「図案」について学んだ。1901(明治34)年には渡欧して工芸図案を学ぶとともに、日本の伝統的な装飾美を再認識し、とくに琳派に傾倒、1907(明治40)年には「佳美(かび)のちの佳都美(かつみ)会」を創立した。
染織、漆工、陶磁器や室内装飾、造園と活躍の場は幅広く、京都の伝統産業界にも大きく貢献した人物として知られている。1942(昭和17)年1月4日逝去、享年77歳。
(東京文化財研究所「物故者記事」)
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko
ここで掲出の絵葉書の意匠について見てみたい。雅やかな色彩かつややエンボス加工の施された霊芝雲文の中心に、「第三會場(古美術舘)」と記された建物の写真とエンブレム。上下には雪佳得意の「蝶」を図案化した模様が配され、背景には有職文様である銭葵をモチーフとする「小葵(こあおい)文」が施されている。日本の伝統を踏まえて、有職文様や吉祥図案などを取り入れつつも、決して古さを感じさせない、上品で華やかな絵葉書に仕上りといえよう。
そして絵葉書左側には、1枚の切手とスタンプが押されている。切手は1銭五厘のもので、「日本郵便」、「大礼紀念」と記されている。そしてスタンプにも「大禮紀念」とあり、旗には「萬歳」、そして「京都」の文字が見える。そして少し見にくいが下部に数字があり「4 11 10」と刻まれている。どうも歴史的な意味のある絵葉書のようである。そこで、さらにハガキに含まれた多様な要素をもとに、その歴史的な経緯と意義を掘り起こすことにした。
「大礼」とは、天皇の即位礼のことを指す。「4 11 10」というスタンプの数字からは、その行事が、ある元号の4年行われたことが示唆される。そこで『日本史年表増補版』(岩波書店、1993年)の近代附近を繰ってみると、大正4(1915)年11月10日、大正天皇の即位礼が京都御所にて挙行されたことを確認することができた。
さらに記念切手については、いわゆる郵趣家たちによって詳細なカタログが作られているので、それらを見ても検索できるが、正確を期して当時の『官報』を国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で検索してみた。すると大正4(1915)年11月10日、大正天皇の大礼を祝して記念切手が販売され、ほかに3銭、 4銭、10銭の切手も発行されていたこともわかった。
くわえて記念スタンプについても、同じ『官報』に「特殊通信日附印」の使用に関して記載があり、まさに絵葉書の捺されたものと同じ図案が掲げられていた。そして使用局は、一等・二等(鉄道・船舶郵便局は除く)、集配を行う三等郵便局および、三重県五十鈴川郵便局と京都府庁内・畝傍御陵(神武天皇陵)・山田行在所・名古屋離宮内の各臨時出張所においてとされ、使用期間も基本的には11月10日から14日までなど、細かく定められていたこともわかった(『官報』第976号・大正4年11月1日)。台湾や朝鮮、また大連そのほか中国国内にある日本政府管轄の郵便局でも使用されていたようである。
ちなみにスタンプの意匠は、旗を基軸としたデザインしたものとなっている。これは紫宸殿前の左近の桜、右近の橘を中心に、即位礼のおりに紫宸殿前に立てられる万歳旛(ばんざいばん)と呼ばれる旗をデザインしたもので、魚と厳瓮(いつへ)と呼ばれる壺が描かれ、神武天皇が九州高千穂から大和へと東征する際に、川に厳瓮を沈めて占った故事に由来し、瑞祥のしるしとされたもの意匠として取り入れたものと考えられる。
(「旛」については、宮内庁京都事務所編『京都《御所》と離宮の栞』「其の十二」宮内庁京都事務所、2015年)
このように大正天皇の大礼を記念した切手と「スタンプ」が付されたこの絵葉書。当然ながら大正大礼と関わりがあるはずである。
そこで宛名面の部分をさらに見てみることにした。すると上部に「郵便はかき」、左側面に「CARTE POSTALE.」、そして宛名面の三分の一には線が引かれて「記念端書」とあり、下部に「大典記念京都博覧会事務局発行」、「日本製版印刷合資会社印刷」の文字が記されている(和文は右横書き)。また左上の切手貼付の箇所には、古美術舘の写真に付されていたエンブレムと「版権所有」の文字もあった。
「大典記念京都博覧会」。すなわち大正天皇の即位礼に合わせて、京都では博覧会が開催されていたのである。さっそく「近代デジタルライブラリー」で検索したところ、京都市役所が編集、発行した『大典記念京都博覧会事務報告』(京都市役所、1916年[以下、『博覧会事務報告』])が収められており、その詳細を知ることができた。
博覧会の開催日程は、1915(大正4)年10月1日から12月19日までの80日間。その開催の費用は、すべて国費及び府費によって賄われた。博覧会の徽章には、即位式の折、紫宸殿に飾られる帽額の瑞雲模様を参考に、京都市の徽章と融合させたデザインを京都市立美術工藝学校教諭千熊宇平(ちくま うへい1883~1941)が担当し作成、それが今回の絵葉書にもエンブレムとして用いられたのだ。
そして博覧会は三つの会場で行われた。メインとなる第1、第2会場は、現在、京都市勧業館(みやこめっせ)や京都府立図書館、京都市立美術館などが位置する岡崎公園一帯である。ちなみに岡崎地区は、2015年、国指定の重要文化的景観に指定されている。ここに工業館、食料館、機械館、参考館などの施設が立ち並び、夜間にはイルミネーションも華やかに施されたという。
実はこの会場の入り口には電燈台座が据えられていたことが、当時刊行された『大典記念京都博覧会写真帖』(大典記念京都博覧会事務局、1915年)に掲載された写真から読み取れる(京都造形芸術大学芸術文化情報センターに所蔵)。そして現在も平安神宮へ向かう参道わき、応天門に向かって東山側には、この電燈台座と思われる赤レンガ造りの遺構が残されている。
さて第3会場では、「古美術展」と称して、御物や宮家、華族、社寺の所蔵品などあわせて750点が展観に供された。その会場として使用されたのが、当時の京都帝室博物館。つまり、今回の絵葉書中央に配された「古美術舘」であり、それは現在の京都国立博物館の「明治古都館」であったわけである。
さらに『博覧会事務報告』では記念葉書についても記述があり、二セットの絵葉書を制作したことがわかった。一つは神坂雪佳の手になる3枚一組のもので、今回話題のデザインのほかに、博覧会の名誉総裁であった久邇宮邦彦王殿下の肖像と三種の神器の八咫鏡状の枠に第1会場の写真を配し、菊のモチーフをエンボス状にデザインしたもの(実は今回、この絵葉書も購入したが、朱を基調に白菊を配するのもので、趣はやや洋風である)、そしてもう一枚が、第1、第2会場における各施設の配置図であった。
もう一セットは図案家の澤田誠一郎(1881~1963)によるもので、即位式の紫宸殿などの模型、高御座と大嘗宮への進御の様子、大嘗宮の模型の写真をそれぞれ中央に配した3枚。いずれのセットとも、値段は10銭であった。二人とも京都に生まれ、京都に深い関わりを持つ図案家であり、博覧会に相応しいものと評価されたのだろう。
この博覧会開催期間中、各会場合わせて14万6694人もの入場者があったことが『博覧会事務報告』には記されている。まさに大正時代の京都における一大イベントであったということができよう。
このようにたった1枚の絵葉書であっても、考古学の発掘調査のように、葉書のなかに秘められた要素を一つひとつ丹念に抽出し、調べ上げていくことで、その歴史的な経緯や意味を深く、そして幅広く理解することができる。古本市などでは、絵葉書に限らず、チラシや切符などさまざまな「紙」の古物が売られているが、単に意匠的に興味深いだけでなく、情報メディアとして貴重な「史料」であることは多い。
ちなみに日本最初のハガキは、1873(明治6)年12月に「郵便ハガキ紙」が発行されたことに始まる。こののち官製だけでなく、私製はがきが発行可能となったのが1900(明治33)年のことで、これ以後、日本でも「絵葉書」文化が花開くことになった。和洋問わず著名な画家の手になる美しい作品もある一方で、やや毛色の異なる絵葉書も多数存在する。
たとえば、地震や洪水などの災害に際しては、それらの被害を撮影した写真が絵葉書として大量に作成され、流通した。新聞以外で画像を伝達する媒体として、絵葉書は極めて重要な役割を果たしていたのだ。佐藤健二は、すでに20年ほど前に絵葉書の歴史資料性に言及しているが、未だ十分に活用される段階には至っていない(佐藤健二『風景の生産・風景の開放―メディアのアルケオロジー―』講談社、1994年)。
実は、絵葉書の製作年代は宛名面の形式である程度、特定できる。その形式を整理すると以下の通りになる(学習院史料館編『絵葉書で読み解く大正時代』彩流社、2012年)。
① 【1900(明治33)年~1907(明治40)年】線の区画なし。
② 【1907(明治40)年~1918(大正7)年】宛名面の三分の一に線引き。
③ 【1918(大正7)年以降】宛名面の二分の一に線引き。
※また1933(昭和8)年以降は、「郵便はかき」から「郵便はがき」へ変化。文字は右横書き。
こうした年代比定の判別法を用いれば、発行年月日が記されていなくとも、ある程度の当たりをつけることが可能だ。今回の絵葉書も、先述したように宛名面の三分の一に線が引かれており、年代は合っている。
もちろん日付入り消印があれば明確となるが、購入後しばらくして使用されることもあるわけであり、宛名面の形式は有効な手段となろう。また絵や写真ももちろん年代比定の要素となる。こうして年代が特定された絵葉書は、まさに歴史資料となるのだ。
昨今、絵葉書もアーカイヴ化が進められており、現物の資史料を手に取って見ることが大前提であるとしても、webを用いて史料を閲覧する作業が可能となってきた。また今回行ったようにweb上であっても、多様な史料を用いて基礎的な検討を行うことができる時代ともなってきている。ぜひ、みなさんも一枚の絵葉書から歴史を探索する旅に出られてみてはいかがだろうか。