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#212

「らしさ」とイデア
― 上村博

「らしさ」とイデア

(2017.04.23公開)

今回は前々回(https://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/essay/2007/)に書いたコレクションのお話の続きである。

モノはコレクションされることにより、それが元々持っていた機能を転換させられる。お堂に安置された仏さまは、美術館の展示室に移動することで、宗教的な機能も社会的な機能も置き去りにしてしまい、もっぱらその造形を眺められる対象に変化する。切手やマッチ箱も、それがコレクションされるときには、もはや郵便代金の支払証でも発火装置でもなく、ひたすらその意匠上の面白さや同種のモノの中での希少価値が重視される。切手は表面にその金額が記された有価証券だが、紙幣や貨幣もコレクションされる。そして、まさにこの貨幣のコレクションなるものは、コレクションされることの効果を顕著に示す。お財布に入れられた貨幣はお金だが、コレクションされた貨幣はお金ではないのである。「お金」はモノでなくても、数字でも十分通用する。銀行の預金はどこかに口座ごとに紙幣や貨幣が積み上げてあるわけではなく、単に数字である。しかしコレクションされる貨幣はモノである。いつかどこかで鋳造された、凹凸も重みもあるコインである。またそれは表面に記された金額以上の値を持つこともある。コレクションによって、貨幣は通貨としての機能を失い、仏像は宗教的機能を失い、別の価値体系に組み込まれる。もっとも、ここまでは良く語られがちな話である。

しかし、それではモノの機能は全く失われてしまうのだろうか。眺められるモノにとって、それが本来有していた役割や性能は無関係なのだろうか。しかし実際のところ、好んでコレクションされているものは、刀剣やカメラなど、むしろ機能的なモノが多い。先に挙げたコインだって機能的である。コレクションされるモノは、実は現役時代(つまりコレクションされる前)バリバリに活躍していたものが多いのではないか。そして、それらはたとえコレクションされることで本来の機能を失ったとしても、コレクションの中での価値づけにあたって、それら本来の機能が大いに関与するのではないだろうか。
たとえば、飛び抜けて切れ味の鋭いナイフは、それが実際に使用されることがなくても、刃物マニアのコレクションのなかで大事にされよう。また極めて独特な味の写り方をするレンズも、カメラのコレクターにとっては垂涎の的である。単にモノが元の文脈を喪失して、ただ眺められる対象に変わる、というだけではない。元々の機能は消え去るのではなく、別のものに転化しているのだ。あるいは、機能が「はたらき」であることをやめて、その「はたらき」がもっぱら感覚に捉えられるモノになったというべきか。つまり、博物館の展示物に代表されるようなコレクションでは、ただモノが知的な関心だけから眺められるというより、その機能的な特性が感性的な意味に転化させられているのである。
とはいえ、以前の記事の末尾で少し触れたように、すべての機能的なモノがコレクションされるわけではない。そのモノの有する機能によって、コレクションされやすいモノとされにくいモノが分かれるのである。(言うまでもなく、現状維持が困難なものはコレクションされることが難しい。たとえば有機物や液体のように腐ったり形を変えたりするものは、コレクションに適さない。しかしこれは、対象の有していた機能の問題というより、保管の問題である。それだから、昆虫標本やお酒などは、適切な保存の手段さえあればコレクションされてしまうのである。)たとえば、女性イメージはコレクションされやすいが、それなりに機能的に活躍しているはずの中年男性の肖像がコレクションされることは(きっとあるにはあるだろうが)珍しいだろう。同様にカメラや刀剣はコレクションされるが、携帯電話や無線ルータがコレクションされることは少ないのではないか。そう考えると、機能するモノがコレクションされると言っても、それは特定の種類の機能であって、またその種の機能には条件があるように思われる。それは、どうやらコレクションするものとされるものとの関係が規定するもののようである。

それは、ひとつには使用者と道具とのあいだの力関係である。使用者がモノを自由気ままに操作することができる、という条件でもある。愛玩の対象という言葉があるが、モノを手でもてあそぶことのできることがコレクションの対象を作る。刃物やカメラはその全体が自分の掌中に収まり、自分の意志で扱うことができる。他方でネットワーク機器の場合は、モノとしての道具を自分で使いこなすというより、どこかで誰かが提供するサーヴィスを利用していると言ったほうがよいだろう。また男性・女性の差も同様である。権利上はともかく、残念ながら事実上は、男性のほうが女性を愛玩の対象と見なすことが多い社会である。そうした、使用者と道具の関係のような一方的な関係が、コレクションには見て取れる。コレクションとは、モノを機能させるのではなく、自分の執着するモノの機能を上から目線で評価する行為、そしてその機能の特徴を感性的に賞翫する行為と言ってもよいだろう。
しかしながら、もうひとつ、「愛玩」という語には収まらない条件があるようにも思われる。ただ愛玩するだけなら、複数のモノは要らない。たったひとつのお気に入りの対象を念入りに愛玩することだってできるはずだ。コレクションは、複数の同類のものの集合体である。そのなかで、いわばコレクションの宇宙の秩序ができあがる。そして複数の個体が秩序をなすためには、それらが全くばらばらの性質のものではなく、ある種の同質性を共有している必要がある。そのため、コレクションへの強い執着がない人間には、しばしばつきなみな、紋切り型のものの羅列にも見えてしまうが、そのつきなみさこそは微細な差異を際立たせるための素地となる。ずらりとならんだ蕎麦猪口も、ただ不要に数多くある食器と見る人もいようが、その似通った姿の連続のなかで、ひとつひとつの面白い形や表情が見分けられる。そしてその共有される性質とは、やはり蕎麦猪口の機能であり、その機能が蕎麦猪口らしい形の基準を作る。その蕎麦猪口「らしさ」があるからこそ、個別の猪口の形や模様、手触りなどの感性的意味が発生するのだ。面白い形状なら何でもいいわけではない。たとえば両手で持たねばならないほど大きなものには蕎麦猪口としての興味は向けられない。しかし他方で透明な素材や今風の絵柄であっても蕎麦猪口の機能を十分果たせばそれはヴァリエーションのひとつとして承認される。コレクションは、愛玩の対象を所有するということだけではない。モノがそのモノ「らしさ」を中心に集合してできあがる、ひとつの秩序ある全体である。「らしさ」という、現実には唯一の形では存在しない理想を、さまざまなモノのヴァリエーションとして展開することである。コレクターの飽くなき蒐集行為は、この「らしさ」という理想に奉仕することとも言えよう。
これは一種のイデア論である。モノに執着するコレクターは、モノを気ままに支配している主人に見えて、実のところ、フェティシズムの語が本来持っていた意味のとおり、目に見えない存在をモノにおいて崇拝しているのである。