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アネモメトリ -風の手帖-

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#125

もうひとつの言葉
― 下村泰史

(2015.08.16公開)

通信制の大学というのはいろんな背景の学生がいるので、レポートの内容は実に多様である。年齢層も幅広いので、さすがだなあ大人でないと書けないよなあと思わされるレポートも結構ある。そういった意味では採点していてなかなか楽しい。すでに大学教育を受けた人が改めて芸術の勉強をしているというケースも多く、こういった人のレポートはやはりしっかりしている。
とはいえ、やはり初学者の人もいるし、勉強したことはあっても文章を書くのがあまり得意でない人というのはいる。いや文章は別にうまくなくてもいいのだが、どのように考え、書くかというレポートの基本ができていないのは、さまざまな科目を学んでいくにあたって障害になる。だから科目によらず通用するレポートや論文の書き方を伝授する科目が必要になってくる。おそらくどの大学にもあるアカデミックライティングの講座である。
レポートによく見られる失敗としては、結論ありきで根拠を踏まえてないものである。思いが突っ走ってしまっていて、どうしてそう考えるかが欠落しているものである。根拠を問い尋ねるということができていないタイプである。でもこれは割と健康な失敗である。
もう一つの失敗は、人の意見を自分の意見のように書いてしまうことだ。これは悪意の剽窃である場合と、どこかにあった「正解」っぽいものを自分の意見としてしまう場合、何も考えずにコピー&ペーストしてしまう場合などがある。剽窃はとんでもないが、まったく自覚なきコピペも頭の痛い問題である。インターネットの普及と結びつけられることが多いが、自分の頭をまったく経由しないこのやりかたに疑問を感じないのは、ものを学ぶ者としては決定的にだめであると思う。この剽窃・コピペ問題が、今日のレポート界(という世界があるのかどうか知らないが)における最大の問題である。
第一点目にせよ第二点目にせよ、①考える主体としての自分がいること、②自分と「踏まえるべきもの」とを分離できること、ができていれば回避できるものだ。論理的で説得性のある展開などは大切なものだが、この態度ができていればあとからついてくるものである。とはいえ、とりあえずは、レポートを作成するにあたっては「踏まえるべきを踏まえ」「論理的に思考する」ことが強調されることになるだろう。
実際には、考える主体としての自分というのは決して自明なものではない。強い確信を持って自分の頭で考えていると思っている人が、出来合いの見解に支配されていたりするというのは、全然珍しいことではない。また「踏まえるに足る」根拠を問い尋ねるというのも難しいことである。客観的・科学的な手続きが取られた調査・実験結果、一定の評価がなされた研究成果、権威の言葉、いろいろなものがあるが、どんなときに何を引き足場に据えるのかも、自然科学に代表される客観科学を除いては必ずしも自明ではない。だが、一般的なレポートのレベルでは、このあたりが問題となってくることは少ないからこれ以上議論するのはやめておく。
ただ気になっていることがある。アカデミックライティング的な科目の隆盛が、大学という場において、こうした「踏まえるべきを踏まえ」「論理的に思考する」言葉を特権的なものにしていってはいないか、ということだ。言葉の論理的側面が学問を可能にしてきたことは疑いようのないことである。これは自然科学において最も典型的に現れる。しかし言葉の働きはそうした客観的論理的側面に留まるものではない。重要なものとして、イメージを喚起する魔術的な力、そしてそれに関わる「喩」の機能といったものがあるだろう。「喩」は論理が「根拠」を繋ぎ積み重ねていくのとはまったく別の方法で、事物や概念を結合してしまう。アナロジーやメタファーという方法である。こうした言葉が学問的分析に向くかといえば、基本的にはそんなことはないのだが、学問の対象の中にはこうした言葉で紡がれたものが多数ある。それは詩にとどまるものではなく、視覚芸術を含む文化的現象のほとんどすべてに、こうした言葉の働きが織り込まれているといってよい。そうしたものを構想したり、読解したりする際に、先のアカデミックとされる言葉だけでなく、「イメージの言葉」「喩の言葉」の運用能力が必要になってくると思うのである。
高校までの国語とは別のしかたで、こうした「もうひとつの言葉」について、教養として教えるべきなのではないか、というのが私の考えるところである。「論理の言葉」の運用をきちんと学ぶのはもちろん重要だが、それでは片手落ちだと思うのである。
この「もうひとつの言葉」について、2つの動きがあると思う。ひとつはこうした言葉を排除する動きである。現政権による全国の国公立大学への人文系学部の縮小廃止の通達は、そうした「イメージの言葉」の軽視する姿勢の表れの最たるものだろう。人文学は、世のさまざまな出来事について、こうした言葉のあらわれを見出し論じてきたものだからである。もうひとつは別の形での「イメージの言葉」が導入される動きである。既存の知を補完するものとして、これまでの専門を越えて実践的な「デザイン思考」が導入されるケースが増えているようだ。本学芸術教養学科もそうした試みのひとつと言えるだろう。ここでは、「問題解決」が強調されるとともに、これまでの物的なデザインだけでなく、思考やプロセスが重視される傾向がある。デザインが持つ現実的で実際的な印象は、ポエティックなイメージの言葉とは異なるもののように見える。デザインプロセスの論理性を知る人にとっては、なおさらそう思われるかもしれない。しかしデザインは同時に表現としての性格、芸術としての性格も持っている。デザインは論理的なものと直観的なものとが統合されたプロセスなのであり、ここにおいて詩的な方法は本来重要な基礎を提供するものだと言える。
本学でもアカデミックライティングにおいては、根拠を踏まえることと論理的であることが中心でありつつけるだろう。だが同時に、私自身の担当科目においては、「もうひとつの言葉」の顕れに、ひとつひとつの科目の中で触れていきたいと思うところである。