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#103

「高野山開創1200年記念 高野山の名宝」展
― 加藤志織

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(2015.03.08公開)

先月、あべのハルカス美術館で「高野山開創1200年記念 高野山の名宝」展を見てきた。この企画展は、まず昨年の秋から年末にかけて東京のサントリー美術館で開催され、本年の1月27日より場所を大阪に移して開かれている。ちなみに本日8日が最終日だ。高野山に関係した約60点の至宝が一堂に公開された理由は、企画展のタイトルにあるように、今年、平成27年が空海によって高野山が開かれてから1200年目にあたるからだ。
さすがに日本有数の寺院金剛峯寺が千年を超えて収集所蔵してきただけあり、絵画、彫刻、工芸といった分野を問わず展示された品々は名品揃いである。なかでもとくに見たかったのが、重要文化財の《板彫胎蔵曼荼羅》(いたぼりたいぞうまんだら、中国・唐時代8〜9世紀、金剛峯寺)である。縦約19センチ、横約15センチの手鏡程度の大きさの板の両面に施された、とても人間業とは思えない細密で正確な彫りをどうしても一目見たかったのだ。
お目当ての《板彫胎蔵曼荼羅》を堪能し、後は国宝と重要文化財を中心にゆっくりと展示された仏画や仏像を鑑賞していると、あらためて日本美術にみられる身体表現の平坦さや空間表現の奥行のなさに気づかされる。とくに西洋の美術を専門に学び、普段それらにふれる機会の多い私の目には、その平坦さと奥行のなさが一層際立って感じられた。
仏画のなかに描かれた仏様の身体は基本的に簡潔で明快な線描によって示されており、西洋のような陰影が施されていない。そのために、凹凸や立体感に乏しい。しかしイタリア・ルネサンス期の美術は、一方向からの採光によって照らし出された合理的な陰影を付けることで、立体的な表現を実現可能にしている。
また、これは古代ギリシアや古代ローマ、あるいはルネサンス期以降の西洋彫刻にみられる特徴であるが、立体物が現実の空間に一定の体積を占めて存在しているかのように表現されている。これを西洋美術や美学では「量塊」あるいは「ヴォリューム」と呼ぶ。
このような西洋的な身体表現は、たとえば古代ギリシア時代の盛期クラシックに活躍した彫刻家ポリュクレイトスが制作した彫像《槍を担ぐ人(ドリュフォロス)》[前440年頃に制作された青銅製のオリジナル作品は消失し、現存する作品はローマ時代の大理石模刻像である、国立考古学博物館、ナポリ]や初期のイタリア・ルネサンス美術を代表する彫刻家ドナテッロの手になる作品、たとえば《十字架のキリスト》[1410〜1415年、サンタ・クローチェ聖堂、フィレンツェ]あるいは《聖ゲオルギウス》[1415〜1416年、バルジェッロ国立美術館、フィレンツェ]を見れば明らかであろう。
ドナテッロの二作品、前者は十字架上、後者は建物の壁をくぼませた壁龕(へきがん:ニッチ)に設置する目的で制作されているが、これらは実際には見ることができない彫像の側面や背後についても、正面と同様、立体的に構成されている。
しかし、この立体的な構成、すなわち量塊が、仏像のような伝統的な日本彫刻には欠けている。「高野山の名宝」展で展示されていた二点の不動明王坐像(金剛峯寺)も、ドナテッロ作品と同じく基本的には正面視を前提に制作されたものである。だが側面から見るとその胸部や腹部は薄く、正面から見た印象も極端に言えば板のような印象を受ける。この量塊を感じ取ることができない身体表現は日本絵画に描かれた人物像の平坦さにも重なる。
こうした日本と西洋の身体表現の違いを指摘することで、一方が他方よりも高度な造形表現であるというようなことを議論したいのではない。そうではなく、このような違いは、地域や時代によってモノの見方や表現の仕方が異なるという証左であり、そうした文化の違いを探るための手がかりに造形芸術がなりえるということである。文化圏の違いによって大きな差異が生じる身体表現や空間表現に注目してみると、きっとこれまでとは異なった芸術作品の見方を体験することができるだろう。機会があれば試していただきたい。
ちなみに「高野山の名宝」展では、運慶が制作した国宝の八大童子像、快慶の手になる重要文化財の四天王立像などの仏像も公開されている。鎌倉仏教彫刻を代表する二人の仏師の作品の様式的な違いを間近で観察することができる絶好の機会でもある。