(2015.02.01公開)
昨年の10月末に日本の現代芸術を牽引してきた赤瀬川原平氏が亡くなった。私が氏のことを知ったのは80年代の前半であったと思う。当時の赤瀬川はすでに尾辻克彦の名で芥川賞を受賞しており、私にとっては美術家としてよりも文筆家としてのイメージが強かった。しかし、間もなくして近現代の芸術、とくに前衛芸術に関心をもつようになり、そしてある日ハイレッド・センターと出会う。これは1962年から67年まで活動した前衛芸術グループで、その名称はメンバーである高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の苗字から、それぞれ「高」・「赤」・「中」の一字をとって組み合わせたものである(1)。
赤瀬川はハイレッド・センターが結成される以前にも、吉村益信、荒川修作、篠原有司男といった当時まだ無名の美術家9名と共にネオ・ダダイズム・オルガナイザーズというグループを組織して、偶然性や身体性を前面に出したパフォーマンスなどをおこなっていた。
1960年銀座で開催された第3回ネオ・ダダ展に際して、吉村がみずからの体にミイラのように案内状を巻きつけて歩いた街宣活動、1964年「BE CLEAN!首都圏清掃整理促進運動」と称して銀座の並木通りでおこなわれたハイレッド・センターによる清掃作業などに赤瀬川も参加している。ちなみにこの清掃作業は同年の東京オリンピックにあわせて実施された環境美化運動を揶揄したものであった。
見る人を驚かすセンセーショナルで奇抜な行為は、マスコミに取り上げられることを意識して計画されたものであり、通常の芸術作品とは異なり、「できごと」がもつその場・その時限りの一回性がとりわけ重要な要素とされた。そのために、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズやハイレッド・センターによる活動はもちろん、この頃に赤瀬川が個人名義で発表した作品には、廃棄されたり、制作経緯の記録が不十分であったりするものがみられる。
こうした活動がおこなわれた背景には、「商品」であることを宿命付けられた「モノ」としての芸術作品、そうした芸術作品のあり方を支える美術館という制度に対する異議表明があったとされる。これを美術史では「反芸術」と呼ぶ。「反芸術」は同時期に欧米の各地でも発生し、後の芸術に大きな影響を与えた。
「反芸術」の特徴である、「モノ」としての芸術作品や既成の芸術制度に対する疑問は、赤瀬川芸術の本質でもあった。たとえば60年代に発表された千円札を拡大模写や印刷して利用した一連の作品、あるいは缶詰の内と外を逆転させた作品《宇宙の罐詰》は、通常の芸術作品が備えているオリジナル性や「モノ」としての存在性について、見た者が自問するように仕組まれている(2)。
赤瀬川が60年代におこなった芸術的な試みは世界的な基準に照らしてみても非常に先鋭的で質も高い。しかし、70年代になるといわゆる前衛芸術からは距離をとり、その代わりに『櫻画報』のような風刺パロディ漫画を描いたり、すでに述べたように小説を発表したりと活動の場を次第に文筆業へと移す。そしてジャンルの移動と共に、制作原理もじょじょに変化していった。
80年代、赤瀬川は「路上観察」あるいは「超芸術トマソン」という概念を提唱する。これらは街中に存在する役に立たなかったり意味不明だったりするけれども何処か面白く見所があるものを発見して楽しむことである。見つけだされるものは、当然、名も無い一般の人たちがつくった作為のないモノや偶然の現象である。したがって見所を見いだす目、すなわち観点の良さが何よりも重要となる。つまり路上観察では、60年代以前の赤瀬川の作品において重要視されてきた「作為」が否定されるのだ。これは大きな違いと言える。
『路上觀察學入門』(筑摩書房、1986年)の冒頭で赤瀬川は20世紀初頭マルセル・デュシャンがレディ・メイドの作品を発表した後に芸術がたどった道筋を示しながら、今日の芸術がもはや「空間と物体と人間の生活世界全域にその姿を没した」と語り、「残されたのは、その生活世界全域を見る目つき」だけであると述べている。この生活世界の全域を見る目つきこそが、旧来の「芸術」を超える方法、すなわち我々が囚われている芸術圏から脱出する道なのだ。
芸術圏から脱出するために必要となる目つきの獲得は決して難しいものではない。そもそも絵を描く時、彫刻をつくる時、何よりも大切なのはモデルである対象をじっくりと観察することである。これは路上観察においても同様だ。自然な状態のあるがままの路上(生活世界)を素直に見つめ、そこに時折出現する意図されざるズレや逆転を発見すれば良いのだ。
この文章のタイトル「赤瀬川原平の冒険は終わらない」は、1995年1月21日から4月2日にかけて名古屋市美術館で開催された企画展「赤瀬川原平の冒険—脳内リゾート開発大作戦」にちなんでつけた。これが赤瀬川の仕事を網羅的に紹介する初めての展示となった。会期中、赤瀬川原平によるレクチャーがおこなわれ、私も聴きにいった。ご本人を直接目にする機会はこの一度だけであったが、テレビ等で見かける温和な人柄と優しい笑顔は20年たった現在でも鮮明に記憶に残っている。
「生活世界の全域を見る目つき」は提唱されてからずいぶん時間が経過したために新鮮味がなくなったようにも感じられるが、芸術圏からの脱出という思考は、芸術の新たなあり方を探る際にはまだ有効であるように思う。反芸術を標榜する芸術家は多数現れ、少なからざる者たちが創意に満ちた優れた作品を制作した。しかし、結局、彼らも美術館という制度に飲み込まれることになる。赤瀬川が70年代以降に、狭義の芸術から身を引き、「路上観察」などをおこなう理由は、おそらくこのあたりにあると思われる。だからこそ今一度「路上観察」をはじめとする赤瀬川の80年代以降の仕事に注目すべきであろう。
芸術の可能性を探求する赤瀬川原平の生涯はまさに冒険そのものであった。そしてこの冒険は我々に引き継がれ、これからもつづく、まだ終わることはない。
この文章を書いている最中に原平氏の実兄である赤瀬川隼氏の訃報に接した。お二人のご冥福を心よりお祈りしたい。
註1:ハイレッド・センターの活動期間については諸説ある。活動内容をより厳密に定義し、1963年5月から1964年10月までとする場合もある。
註2:千円札をモチーフに使った作品は紙幣の偽造にあたるとして起訴、その後の裁判では日本を代表する著名な評論家が赤瀬川を弁護した。しかし執行猶予付きの有罪となる。こうした一連の騒動および裁判も作品に含まれると言えるかもしれない。《宇宙の罐詰》の内側には通常外側にあるはずのラベルが貼られ、逆に缶の外側には何も貼られていない。つまり、缶の内と外を逆転させることによって、宇宙(我々が存在するこの世界)を缶のなかに詰め込んだのである。
図:テヴェレ川沿いの道からサヴェッロ公園へとつづく小道、ローマ市