(2015.01.25公開)
うどん屋さんの看板が好きだ。うどんが好きなのではなく、うどん屋の看板が好きだ。いや、うどんも大好きだ。しかしうどんが好きなのとは別に、うどん屋さん、そしてうどん屋さんの看板が大好きなのだ。
そこは結構大事な点だ。つまり、うどんも好きだがうどん屋も好きだ、という点である。食べ物としてなら、好きなのはうどんだけではなく、蕎麦でもラーメンでもきしめんでも、麺類は基本的に大好きである。東京に出張すれば毎日三食蕎麦でも良い。福井でも松江でも松本でもまずは蕎麦。京都にいても蕎麦を食べる方が多いだろう。そして蕎麦屋にも馴染みの店や居心地の良い店があるのはある。しかし、蕎麦屋さんに心惹かれるのとは全く別の仕方で、うどん屋さんには独特の魅力がある。
その理由はいろいろあろうが、ひとつには「うどん」と太く大きく書かれるその看板だ。あの気取らない太っ腹な書体が、まず何よりも良い。そう。太っ腹。ずん胴なものの持つ、あの安定感。さあどおんとかかってきなさい、といわんばかりの頼りがい。それに比べると蕎麦屋は格好良すぎるのだ。粋で素っ気ない暖簾。あるいは脱サラ系のこじゃれた店構え。求道者風のわかりにくい屋号。そんなお店にふらりと立ち寄り、ささっと蕎麦を「手繰る」なんてスマートなことは、もう若くない身には遠い日の、やまのあなたのあこがれだ。うどんは汗をかきつつざぶざぶすするもの。その暑ぼったさと、もったりした小麦粉の弾力を、「うどん」という太い文字は体現している。
そのむかし『巨人の星』という野球マンガがあって、貧乏な少年が艱難辛苦のすえに読売新聞の野球団の投手となる夢を果たすというストーリーだが、その脇役に、伴宙太といういかついキャッチャーがいた。こちらは下町のストイックな主人公とは違い、金持ちのドラ息子だ。細かい経緯は忘れたものの、伴宙太が何かとても悔しいことがあって、そのときにうどん屋さんで「けつねうどん三杯!」と大声で註文し、泣きながらうどんを涙と鼻水と一緒にズルズルすする、というシーンがあった。ああこれだ。この粗野で野太い味覚、このどんぶりを三杯重ねる感覚、これこそうどん。これこそうどん屋。漱石の坊ちゃんも天ぷら蕎麦を四杯食べたが、これはそれとはちょっと違う。坊ちゃんには都会的な自意識が見え隠れする。
うどん屋の看板(そしてうどん屋さん)には気負いがない。照れもない。あっけらかんと年齢を重ねた人間の、自分の弱さを心得た強さがある。初々しい含羞もなく、枯れた達者さもなく、どおんと背中にもたれても平気な安定感を「うどん」という語感と文字が見せてくれる。人間でいえば、やはり恰幅のいい伴宙太。あるうどんチェーン店ではわざわざ中高年を選んで雇うのだそうだ。
実は、うどん屋の看板にこそ、見落とされている日本の美意識があるのではないかとさえ思う。「クールジャパン」でも「わびさび」でも「ミニマリスト」でも「琳派」でもない、どっしり身構えた、ぬくもりのある日本である。日本の繊細な、そして時にいびつな美意識は、やたらと硬質だったり細身だったりするが、本当は細腰の美少女ではなく、太っ腹のおすもうさん、えびす顔で布袋腹のだんなさんこそ、美しい日本の私なのかもしれない。そういえば冷めた顔をした川端康成だって、実はうどん好きの大阪人だ。谷崎の陰翳礼讃なども、関西でおいしいものを食べ、ぬくぬくと厚着して着ぶくれてこそ、そんな細かな神経を使えるのだ。池波正太郎ならともかく、日本近代文学には蕎麦屋の暖簾よりも、うどん屋の看板が良く似合う。
そしてうどん屋の看板のかもしだす安心感は、「クールジャパン」よりも普遍性を持つのではないか。そもそもたっぷりした肉身は、唐・天竺の流れを汲む仏さまたちにも認められる。ブッダの姿には断食してガリガリになったお釈迦さまもあるにはあるが、それよりやはり、ゆたかな肉置きの阿弥陀さまにこそ後生を頼りたい。アジアの美丈夫はずんぐりどっしりした胴回りでなくては恰好がつかない。また「うどん」のぬくもりは「ふとん」に似ている。うどんもふとんも打つものだ。打って叩いてもしっかりした弾力と手応えがある。日本アニメのファンの多いフランスでも「フトン」は重宝されている。その安定した重さが良いのだろう。フランス趣味の基調には、気取った宮廷文化ばかりがあるのではない。エスプリ・ゴロワ(ガリア人気質)はイタリアやビザンティンの洗練に対してもっと野太い精神を指す。繊細さ(esprit de finesse)は鈍重な体格と矛盾しないどころか、骨太なものと相俟って優れたものを生み出すはずだ。そういえば、「うどん」は「ヴィトン」にも似ている(これはちょっと無理か)。ヴィトンというお店は、もともとは都会をそぞろ歩く若い女性のアクセサリーではなく、長路の旅にも耐える、どっしり重たい頑健な鞄で評判をとった鞄屋さんだ。
ひょっとしたら、華奢で繊細なものばかりを尊ぶ文化は、近代都市の男性社会が生み出した夢ではないか。しかし世界は広い。歴史は長い。ヴィトンとフトン、ブッダとうどん、うどん屋のどんぶりと看板。これらぼってりしたものたちが、ふたたび芸術や文学を堂々と代表することは十分あるだろう。オダサクの『夫婦善哉』は面白い反面、情けない気分になって仕方ないのだが、これも『夫婦うどん』というと心強い感じがする。ピカソの《アヴィニョンの娘たち》も嫌らしい絵だが、《ウドン屋の娘たち》を描いていたなら少しは傑作だったろう。『熱いウドン屋根の上の猫』『ウドンを待ちながら』などなど、これからのウドン主義芸術の未来は明るい。