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アネモメトリ -風の手帖-

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#89

七五三
― 野村朋弘

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(2014.11.16公開)

11月15日、全国の神社は着飾った子どもたちで賑わう。
三歳の男女、五歳の男子、七歳の女子が神社に参詣する「七五三」である。
地域の神社はもとより、著名な神社の多くがこの儀礼を行っている。伝統的な儀礼といえるだろう。しかし、「七五三」という名称の歴史を振り返ると以外と新しい。今回は七五三について考えてみたい。

まず、「七五三」の儀礼そのものについての歴史を紐解いてみよう。江戸時代の天保九年(1838)に版行された『東都歳事記』の十一月十五日の箇所を見てみると「嬰児の宮参り。髪置、袴着、帯解等の祝いなり。(中略)各あらたに衣服をととのえ、産土神へ詣じ、親戚の家々を廻り、その夜親類知己をむかえて宴を設く」と記されている。
ここに登場した、髪置、袴着、帯解とは何か。髪置とは幼児の髪を伸ばし始める儀式。袴着は初めて桍をつける儀式。帯解は着物の付け紐を外して帯を結ぶ儀式である。これら髪置や袴着、帯解は必ずしも三歳、五歳、七歳と固定化されていたものではなかった。

これらが、江戸時代に江戸などの都市部を中心として定型化していった。なぜ七歳までに行なわれたのか。「七歳までは神のうち」といわれ、生命が定着していない子どもは死傷率が高かった。麻疹や疱瘡などの伝染病が主な原因といえる。無事に育つことを祝い、更には七歳となって、一人前となったのである。
そのため、江戸などの都市部以外では七歳を重要な画期として祝いを行っている。三歳・五歳・七歳と段階をおった行事は定着していなかったようである。また、地域によっては九歳や、十三歳を祝い場合もある。それぞれの地域で多様な幼児の祝いが行われていたのである。これらも七五三と同様に、無事に子どもが育つことを祝った儀礼といえよう。

さて、今回取り上げた「七五三」。この名称自体、決して古いものではない。七五三の名称が使用されるようなったのは、多くは明治時代であり、近代となってから各地域に広がっていったものである。都市部以外、農村や漁村では先に記した通り七歳の祝いのみを行っていた地域が多い。「七五三」が全国的に一般化したのは戦後以降であったという。つまり、純然たる「七五三」が一般化したのは比較的に新しいのである。

そして、『東都歳事記』の記事に立ち戻ろう。「あらたに衣服をとのえ、産土神へ詣じ、親戚の家々を廻り、その夜親類知己をむかえて宴を設く」とある通り、着飾って子どもの成長を祝い、かつ産土神へ守護を願う。同時に地域社会に子どもが承認される儀礼であったとえよう。
それが現代では地域社会のつながりが弱まり、産土神への参詣から、明治神宮や鶴岡八幡宮など著名な神社への参詣に集中するようになりつつある。また少子化にともなって一人の子どもに費用をかけ、神社だけではなくホテルなどで七五三祝いをするなど、家族の「ハレ」のイベントとしての位置付けがされるようなっている。つまり「七五三」は、子どもの健やかな成長を願う点では不変だが、地域社会に承認される通過儀礼だったものから、家族の儀礼へとは変化を遂げつつある。伝統的な行事の変化の一事例といえるだろう。