(2016.12.04公開)
各地の鉄道会社でアニメ風の美少女キャラクター(いわゆる「萌えキャラ」)が当たり前のように使われて久しい。京都市交通局も、「太秦萌」(うずまさもえ)とその同級生、家族のポスターをでかでかと駅構内に貼り出し、プリペイドカードの図柄にも採用して人気だそうだ。近々アニメ化もされるらしい。また先日京阪電鉄の石山寺−坂本線に乗ったところ、「石山ともか」というキャラクターが車掌の制服を着て描かれているのを目撃した。どうやらこれらは全国的な動きのようで、「杜みなせ」(仙台空港アクセス鉄道)とか「朝倉ちはや」(西鉄)とかもいる。さらにはそうした各地のキャラクターを、タカラトミーの関連会社が「鉄道むすめ」としてカタログ的にまとめて商品化しているようだ。
女性を特定の場所や施設の性格づけに用いるのは昔からのことで、欧州語で地名の多くが女性名詞であることもそうだろう。また、天空は男性、大地は女性というのは、農耕を象徴する神話の典型的なパタンである。しかし「萌えキャラ」は、おそらくそのような生殖の豊饒として女性性を象徴するものではない。もう少し特殊な含意を持つイメージとしてセクシュアリティに関係するのではないか。
ジェンダー論やサイードのオリエンタリズムの議論を借りるなら、ある程度は、こうした各地の「萌えキャラ」にも説明がつくだろう。たしかに、能動的で知的な都会の成人男性が、受動的で官能的な地方の未熟な女性をイメージ化した図像、ということもできるかもしれない。また同様に、それは昔からある「美人図」というジャンルの系譜に位置付けてもよいかもしれない。それが描くのは具体的な女性個人の肖像というよりも、男性から見た類型的な女性像である。そしてまた、男性の理想(妄想)を描いた絵画だけでなく、写真という現物を写し取る技術を使っても、同様の女性像はたくさん作られた。写真や写真印刷が普及するなかで、各地の「美人」の図版が大量に作成されていったのである。新潟美人、福井美人、宮津美人など、地方ごとに評判の女性の写真が撮影され、印刷され、絵葉書や雑誌の口絵などに使われた。美人写真には、実は「地方」だけではなく東京のものもあって(もちろん「京都美人」もある)、新橋美人、葭町美人などがあった。そう書くと、「美人」という語が指すのが、ただ容姿の美しい女性というよりも、その多くは花街のスターだということがわかるだろう。こうした各地の女性の画像は、財産のある男性からじろじろと品定めされる対象である。土地のイメージを女性が代表し、それに向けて外部の男性が視線を投げかけている、という点では「萌えキャラ」にも近いと言えよう。
女性への視線ということで言えば、つい最近、鹿児島県志布志市への「ふるさと納税」を促すPR動画が物議をかもしたことがある。動画では、スクール水着の少女が水を滴らせながら「僕」(語り手)に向かって「養って」と訴えて来る。その後、水中を泳いだり、プールサイドで飲食をする少女を「僕」はかいがいしく世話をして育てる。そんな映像なのだが、やがて「その美しい人の名は、うな子。」というテロップとナレーションが入ると、少女は「さよなら」と言い残して水にざんぶりと飛び込み、瞬く間に姿を一尾のウナギに変えて泳ぎ去ってゆく。そして最後にはなんと火にあぶられる蒲焼きが映し出される。つまり、少女はウナギを擬人化したものであって、ふるさと納税を行うと志布志特産の鰻の蒲焼きが貰えるというわけだ。美しい自然の中で、丁寧に管理してウナギを養殖している、という意味なのだろう。しかし、その水着少女の動画は散々に批判されて公開中止となった。ウナギのPRにどうして水着姿の人間の少女を使うのか。プールで少女を飼うというのは女性をモノ扱いしているのではないか。ついでに言えば、養殖されたウナギはほとんどオスなので、映像にするなら、むしろ肥えた男性を泳がせたほうが生物学的に正確なのではないか。
こうした指摘はそれぞれあたっていようが、志布志市のほうではおそらく他の自治体でも普通に作っている「萌えキャラ」のブームに乗っかっただけなのだろう。もちろん、それは「うな子」の表現の免罪になるということではない。「うな子」だけではなく各地の「萌えキャラ」全般にも、ある種の性的な視線がしっかりと意識されている。ただ、「うな子」は実写のスクール水着少女を使ったことで、他の2次元の「萌えキャラ」とはまた違う視線(と同時に非難を)を浴びてしまったのだろう。「萌えキャラ」とウナギ少女は似ていて,ちょっと別物である。
それでは地方の「萌えキャラ」とは何なのだろう。先に述べたように、ある程度は、男性が一方的に性的願望を投射した図像、ということでも説明がつきそうである。たとえば、19世紀のオリエンタリズムの絵画に見られる、豪奢で官能的な女性たちのように。しかし当時のセクシュアリティと今日のセクシュアリティは同一ではない。また場所によっても違うだろう。西洋人男性が植民地の女性たちを撮影した絵葉書を見るのと、明治末の東京市民が地方の名妓のブロマイドを集めるのとでは、重なるところもあれば違うところもあるだろう。また100年前の芸妓への視線と今日のアイドルやキャラクターへの視線も、一部は重なるかもしれないが、同じものというには、観る側も観られる側も違いすぎる。「萌えキャラ」は単に「女性キャラ」なのではない。「美少女キャラ」といっても不十分で、「女」でも「少女」でもないかぎりでの「美少女」、あくまでも「萌えキャラ」なのである。
ところで、コレクションを代表する施設と言えば、もちろん博物館や美術館である。それらが昔からやってきたことも、実は作品ひとつひとつの鑑賞経験を提供すること以上に、蒐集されたモノの集合体が発生させる意味に遊ぶことではなかっただろうか。動物園でも植物園でも、ひとつひとつの展示対象はもともと自然界のなかにあってもそれなりに興味深い対象だろうが、ひとたび園のなかに入るや、そこではコレクションされたものとしての意味を持ち、蒐集する人間の恣意的な好奇の視線にさらされる。個々の生きてきた環境が意味を決定するのではなく、モノをコレクションする視線が関心を方向づける。そういえば、以前訪れた蒲郡の竹島水族館では、館長おすすめの展示物がいくつかピック・アップされて紹介されていたが、その名も館長コレクション、略して「館これ」であった。
もちろん「萌えキャラ」は単なるコレクションとは違うだろう。そこには水族館の標本に向けられるような知的興味の視線というよりも、もっと感覚的で、性的な関心が入りこんでいる。とはいえ、それが人間の女性に対する性的関心かというと、それもちょっと違う。画像ならではのしかたで、人間というより生身のモノとして、あるいはさらにはアンドロイドにも近いモノとして、フェティッシュな対象になっている。 画像化され、コレクション的な視線を受けることで、もともと自分の生活環境の中で機能を持っていたモノも、その機能性を別の意味のものに転化してしまう。そしてそれも知的関心だけでなく、感性的(審美的)な知覚を強く喚起するようなモノ的存在になる。だからこそ、コレクションされる対象は、刃物とかカメラとか、すぐれて機能的な道具が多いのだろう。
ではどうして人間については、女性イメージのコレクションが多いのか? 男性は機能的な存在ではないのか? またパソコンや携帯電話や便器など、ほかにも機能的な品物は多いのに、コレクションの対象になるものとならないものは何が区別するのか? こうした問いについては、使用者とモノと行為との関係性によって考えることができるだろうが、それはまたいつか日をあらためて。