公共空間の成立を論じた古典的な著作に、ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』(1962)がある。「公共性」Öffentlichkeit は「公共圏」public sphereとも訳される。そこでハーバーマスは市民社会における公共性のありかたの成立とその後の変質とを説得力をもって論じているが、それに付随して、私的な空間と公共的な空間が特に17世紀以降に分岐してきたことを語っている。たとえば個人の内面を吐露する小説や、私邸の中で来訪者と接する客間も、私的な領域と公的な領域のあわいに生まれたものである。ハーバーマスの議論には勿論批判もあり、特に18世紀の市民的公共性が誰しもが参与しうる普遍的なものではなく、事実上寡占的なものであったという指摘はある面では当たっているかもしれない。しかしそれは反証というより補足的な議論である。公共的な領域は私的な生活、私的な空間との緊張関係のなかで作られる。そして、彼のいうところの「文芸的な」literarische 公共性も「私人」を前提にしている。最近、ときどきこのことをあらためて思い出すのは、私的とも公的とも判然としない文化的産物に辟易することがあるからである。
文化や芸術は「私的なもの」と「公共的なもの」の形成に大きく寄与する。あくまでも「私的な」個々人が価値評価をしつつも、それによって同時にその誰もが関わりうる「文芸的な」(これは「芸術的な」と言い換えても良いだろう)公共性ができあがる。とはいえ、「文芸的」公共性は文芸ないし芸術という職域ではないし、個人の表現はそうした職域内(アートワールド)での「個性」には限らない。作品の個性とは、「公共」を作る「私」とは別のものではないか。
芸術作品、それも近代以降の作品になると、個性を主張するものが目立ってくる。それも「作品の個性」ならまだしも、「作者の個性」を声高に主張する。芸術作品はかつてははっきりと使命を持っていた。どこの場所に、何のために、誰に向けて作られるのかが、はっきりと決まっていた。近代以降(美術市場、美術批評、美術史が成立する17〜18世紀以降)芸術作品というジャンル(そしてそのようなものとして作品を評価する慣習)が成立すると、作品は「芸術」という囲われた領域内で、各々の特徴を差異化するため、作者名というブランドを競う消費財になる。こうした変化は先の「文芸的な」公共性にとっては大事なことである。しかしやがて、作品の表現するものと「作者名」とが混淆してゆく。職業作家であれば、作者名は商標と一緒でも良いだろう。しかしあたかもそれが唯一の制作モデルであるかのように、愛好者や一般教育の場でも、作者の個性の表現が求められる。植物や乗り物をちまちまと模写したり、アニメのキャラクターを描くことは「創造性がない」「概念的なもののみかたである」と断罪される。アマチュアもこどもも、それぞれ自分の個性を追求させられるが、職業作家の卵たちはなおのこと教師から独創性を絞り出すよう、お尻を叩かれる。こうして、私だけのものの見方、私独自の世界観、私ならではの感覚が氾濫する。しかしこれらは本当の「私」なのだろうか。あからさまに自分の痛みを露出する小説。これ見よがしの歪んだ図像。パタン化された私の個性、独創性。「私」がなくても求められる「個性」。「俺の話を聞け」という叫びは「私」の表現ではなく、どちらかといえば集団的な感情表出である。本来の芸術活動は芸術史のなかで目立つことが目的ではないだろう。むしろ、もっと地味なかたちで、「私」を確立することではないだろうか。
一方で、芸術の世界には、公共的なものに似たものも跋扈している。あまりにありふれた個性表現の裏返しで、社会的な関与に芸術の存在意義を求めるかのようだ。ソーシャルなアート。地域との連携。交流する。社会貢献する。元気を与える。しかし、「公共的な」アート(パブリック・アート)が単なる彫刻の屋外設置に過ぎない場合があるように、そもそも社会の中で一定領域内に囲い込まれることで存立してきた芸術ジャンルをそのまま社会に出したとしても、何ら社会化するわけではない。特殊な空間、特別な機会のなかに完結した見世物ないしイヴェントで終わるだろう。作者名が貼り付けられるワークショップや展示には、美術館や劇場の中でできること以上のことを期待してはならない。本当に公共的な空間に関わろうとするのであれば、何も造形表現や演奏活動のワークショップは必要ない。勿論、それらが役立たないということではない。しかし、芸術的イヴェントとしてのワークショップにことさらに社会性や地域性の衣裳をまとわせても、余計なことである。公共的なものを形成するのは、ありがちな作家の展示やワークショップではなく、普通の「私」たちが交わる(折り合いをつける、交歓する)ことである。「私的なもの」が「公共的なもの」とともに成立するためには、作品をただ受容するだけでなく、みずから制作する、表現するという行為は重要だろうし、たしかにその際に芸術家やデザイナーの関与も有効だろう(自分の作家性を求めないなら)。ただしそれは一過性の祝祭に酔うことでも利他的行為に献身することでもない。集団的な芸術的興奮は「私的なもの」が向き合う「公共的なもの」とは別物であり、それはそれで時々味わえばよい程度のものである。
「私的なもの」を作ることが同時に「公共的なもの」を作ることである。「私的なもの」がないところには「公共的なもの」もない。擬似的な「公共」と「私」として、集合的な感情とその中での自分の承認欲求とがあるだけである。