(2016.06.05公開)
午に逼(せま)る秋の日は、頂く帽を透して頭蓋骨のなかさへ朗ほがらかならしめたかの感がある。公園のロハ台はそのロハ台たるの故ゆえをもって悉くロハ的に占領されて仕舞った。高柳君は、どこぞ空あいた所はあるまいかと、さっきから丁度三度日比谷を巡回した。
『漱石全集』第3巻(岩波書店 1994年)
夏目漱石の小説『野分』の一節である。登場人物の一人、高柳(周作)は日比谷公園を三度も回って、「ロハ台」を探している。
いったい、この「ロハ台」とはなんだろうか。これを知らなければ、この小説を読むこともかなわない。近代明治の小説には、こうした言葉がよく現れてくる。
「ロハ台」とは、「ベンチ」のことである。実はこの文章のあとに、
三度巡回して一脚の腰掛も思うように我を迎えないのを発見した時、重そうな足を正門のかたへ向けた。
とあり、「ロハ台」が「腰掛」であることがわかる。ではなぜ、「ロハ台」などと言い、高柳は懸命に「ロハ台」を探したのだろうか。漱石も「ロハ」、「ロハ」とうるさいほど強調している。
ちなみに高柳君はこのあと、「富裕な名門に生れ」た中野(輝一)君に会い、「公園の真中の西洋料理屋」でビフテキをご馳走になる。この「西洋料理屋」とは、1903(明治36)年に、東京市が日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた 小坂梅吉が落札しオープンした、「日比谷松本楼」のことである。この『野分』が、雑誌「ホトトギス」に掲載されたのは、1907(明治40)年1月のこと。開業間もないハイカラな場所を小説の舞台としたところが、漱石らしい心憎い演出といえよう。
さらに『野分』を読み進めると
今ぐるぐる巡って、休もうと思ったが、どこも空あいてゐない。駄目だ、只で掛けられる所はみんな人が先へかけて居る。なかなか抜目はないもんだな
とあって、「只」つまり「タダ」である腰掛なのである。それまで、腰掛というと基本的には「有料」であった。江戸時代より、行楽、物見遊山は盛んであったが、そうした場所には必ず「茶店」があった。
鈴木晴信の著名な浮世絵「お仙茶屋」の「笠森お仙」は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘であり、そうした茶店が寺院や行楽地には多数存在していた。したがって、外出して「座る」という行為は「タダ」ではなかったのである。
それが明治という時代になり、「公園」という場所には「タダ」の腰掛ができた。中野という金持ちと高柳という貧しい文学青年を対比させたい意図もあったかもしれないが、そうした近代という時代の雰囲気を、漱石は「ロハ台」を通して示したかったのかもしれない。
なお元治元(1864)年に刊行された『英米通語』(弁天通[横浜]・師岡屋伊兵衛)では、「こしかけ ベンチ」とあり、明治初期にはbench に対して「腰掛」という意識があったようである。いつごろから「ロハ台」という語が用いられていたのかは不明だが、早い事例としては、明治28(1895)年刊行の泉鏡花『鐘声夜半録』に登場するとされている。すなわち、そのころから日本にも無料の「ベンチ」が登場したといえるだろう。
さて、明治時代に登場したもののなかでも、現在の私たちに身近なものの一つが「公園」である。明治6(1873)年の「太政官布告第16号」において、いわゆる旧社寺の境内を中心として、「公園」を設置することが定められ、東京では上野公園や芝公園、飛鳥山公園などが初めて整備された。
しかし、公園といっても従来から行楽地や物見遊山の地として知られていた場所でもあり、本格的な西洋式公園は、日比谷公園の開園を待たねばならなかった。
日比谷公園は、東京市区改正計画の一環としてつくられたものであり、もともとは陸軍の練兵場などがあった敷地が、明治26(1893)年に東京市へ移管されたことに始まる。
この5万坪の原っぱをどのように使うかというとき、東京市会が中心となって出てきたのが、日本初の新設公園として西洋風公園の設置を望む声であったのである。
そこで海外の動植物園の事情に詳しい博物学者田中芳男や建築家辰野金吾らに設計を依頼したものの、市会はそれらの案を通さず、なかなか進展を見なかった。
それを打開したのが、のちに明治神宮神苑を作り上げた林学博士本多静六である(このあたりの事情は、川合健太先生が「空を描く」の「#141 日比谷公園の昼」に書かれている)。本多を中心に、園芸家の福羽逸人や造園家の小沢圭次郎らとともに設計案を作成し、様々な議論を経て、ついにわが国最初の洋式公園として、1903(明治36)年6月1日に開園した。
公園内には噴水2箇所、洋風庭園や日本風庭園、日比谷見附の濠を利用した心字池などを配し、当時の新聞記事によれば、園内には2万4,350本の樹木と約135種類の花卉類約1万2,000株が植えられた。そして、休憩所2ヶ所、便所5ヶ所、共同椅子150脚、瓦斯灯70基が設けられたという。また特筆すべき点として、運動器具(鉄棒・ブランコなど)も設置され、現在の都市公園に通じる要素を多分に含んでいるものであった。
まさに「共同椅子150脚」は、高柳君が探していた「ロハ台」。これだけの数があっても満席であった日比谷公園のベンチだが、最近では「思い出ベンチ」事業と題して、寄付者の名前とメッセージを刻んだ記念プレートを取り付けたベンチを設置する試みも行われている。いったいベンチの総数は、どのくらいになっているのだろうか。
新緑の美しい季節。公園のベンチで過ごす方も多いだろう。そんなベンチにも歴史はある。
※写真は明治神宮外苑のベンチ。
【参考文献】
前島康彦『日比谷公園-日本最初の洋風国民広場-』〈監修:東京都公園協会〉(郷学舎 1980年)