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アネモメトリ -風の手帖-

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#359

異界からの言葉
― 下村 泰史

221225_謹賀新年

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

とはいえ、これを書いている今はまだ12月、年の瀬である。慌ただしい年の瀬の中でこれを書いているのだ。お正月にこれを読む方は、まだおめでたくない昨年の私からの通信を読むことになるわけだ。過去からの手紙である。ちょっとした霊界通信のようなものである。
しかし、年賀状というものは、正月になってから書かれる返信以外、みなこのような、暗い過去からの手紙という性質をもっているわけだ。しかも、そのほとんどにおいてお正月のおめでたさを偽装されているのである。そんな通信が時空を超えて行われるお正月というのは、なにか超自然的な出来事のようにも思われてくる。

そう感じられるのは(ふつうは感じないかもしれないが)、お正月が年が変わるという大きな節目だからなのかもしれない。考えてみると、書かれたものを読むということは、ほとんど例外なく過去からの通信にふれるということである。節目でないから意識されないだけである。書き言葉を読むということには、そういう暗さがあるような気がする。

古典の言葉に触れるときには、それが過去の作品であることは意識される。しかし同時代の文学作品にふれる場合には、そうした時間差はあまり意識されない。SNS等で発言している作家であればなおのこと、その言葉は「いま」のものとして感じられるだろう。だがそれは、やはり今とは切り離された過去に書かれたものなのである。

言葉がほんとうに現在のものであるのは、対話のときだろう。複数の人の言葉が相互に行き交い、その流れの中で言葉が移ろっていく、そういうフローな場においては時制はつねに現在である。そこでのやりとりは、ほとんどの場合音声による話し言葉である。ただ、ときに短詩のような書き言葉が行き交うこともあるかもしれない。筆談や、句会などでの書き言葉は、おそらく過去からのものではない。声たちと同様、そこに生起する言葉である。

こうしてみると、過去からの言葉と現在を行き交う言葉というのは、私達はすでによく知っているもののようだ。では、未来との通信とはあるのだろうか。あるとすれば、それはどのようなものであろうか。未来に書かれたテキストを読むという経験はなかなかできないことのように思われる。読んだことのある人がいたら話を聞いてみたい。

書く、のほうはどうだろう。今書いているこの文章にしても、後ろから誰か覗き込んでいるなら別であるが、今誰かに読まれるということはない。誰かに読まれるのは、私の手を離れた未来のことである。言葉を書き記す、というのは、基本的にそのような時間的な飛び越えを含んでいるのではないか。

年賀状もまだ年をまたいでいない過去からの通信であったが、遺言状というのもまたそうしたものだろう。先の年賀状の例と同様、新年や死といった明確なまたぎ越しのラインがあるときそれは意識されるが、そうでない普通のテキストも、おそらくはほとんどすべてが未来へ向けての通信文なのだ。

言葉を記すということは、ある出来事にその言葉の長さだけの名前を与えるようなものである。どこかから引き写された言葉でないのなら、その名付けはなんらかの発見を含んでいるのだと思う。既存の言葉では言えないことを改めて言葉にしているのだから。
書くということは、詩にせよ、レポートにせよ論文にせよ、そうした未知への名付けなのであり、それを未来に送ることなのだ。

そう思うと、締切のあるレポートも少々気分の違ったものになるのではないだろうか。締め切りというと、圧迫感のある壁のようなものをイメージしてしまうが、書くということが、その向こう側の未来に未知のものを届けることなのだと思うと、それは開放感に富んだものに変わるような気がする。
そういえば、年賀状における正月というのも、そういう締切のようなものなのではないか。その向こう側に至るときに、何かが反転して開放されるのだろう。おめでたいというのは、そういうことなのだろう。

今年は、こういう開放感を予感しながら、いろいろな言葉に、イメージに触れていきたいと思う。

ということで、本年もよろしくお願いいたします。