(2016.04.24公開)
この時期、朝起きてカーテンをあけると、「あ、今日も雨だ。」と思うことが多い。春の雨には独特の柔らかさがあるから、外を見るまでは降っているかどうか分かりにくい。ぼたぼたと落ちる雨音や、ざあざあと降りつける雨音とは違って、春雨は新緑の若葉にしとしとと、静かに落ちる。それはまさしく、春の響きである。
雨が多く、四季の変化に富む日本では、雨を表す言葉の表現が豊かである。たとえば、春には「春雨」「翠雨」「緑雨」、梅雨には「五月雨」、夏には「夕立」、秋には「秋雨」「秋霖」、晩秋から初冬にかけて「時雨」、冬には「寒雨」「凍雨」などがある。ひとしきり強く降ってくる雨を「村雨」、降ったりやんだりを繰り返す雨を「長雨」、霧のように音もなく降る雨を「霧雨」などと、降り方によって区別したりもする。「雨」だけをとってもこれほど表現が豊かなのは、季節の移りゆく日本において、農業や漁業を営むのに天候の予測が不可欠であったからだと言われている。その営みのなかで、季節ごとに異なる自然の装いを楽しむことも知ったのだろう。
こうして、雨を捉えるそれぞれの言葉に、私たちはそれぞれの景観を思い浮かべる。しかし、それと同時に、それぞれに異なる雨音も思い起こしていることに気づいているだろうか。「豪雨」と聞けば、地鳴りのような雨音や、路面をバシャバシャと跳ねる雨音を連想するかもしれない。萩やススキの描かれた絵画を見れば、そこに虫の声や風の音を重ね合わせてしまうように、私たちは無意識のうちに景観と音とを結びつけて捉えている。現代音楽作曲家のマリー・シェーファー Murray Schaferは1960年代に「サウンドスケープ」という概念を提唱しているが、そこで言われているように、私たちの生活環境はそれを取り巻く音と切り離して考えることはできない。そして、日常生活から連想される音模様は、当然ながら時代や地域によって異なっており、どのような音を聞き取ってそこからどのような情報を得ているのかは、個々の文化的な事象として位置づけられる。
個々の文化において景観と音とがいかに結びついているかは、たとえば、映画や演劇などのBGMを聴くと容易に推し量ることができる。江戸時代に庶民に支持されて生まれた歌舞伎という演劇には、BGMだけを専門に演奏する下座音楽(黒御簾音楽)があるが、そこに当時の庶民の音感覚を垣間見ることができるから興味深い。下座音楽の演奏家は舞台上に姿を見せずに、舞台下手の御簾内で演奏するのだが、そこで演奏される曲はじつに多彩で、800曲にものぼる。とりわけ重要な楽器は鳴り物の大太鼓で、バチを一定の速度で打ってよどみない川の音を表したり、風が物に当たって出る不規則な音を模して打って風の吹くさまを表したりする。自然の音は抽象化され、演劇様式のなかに約束事として成立しているので、観客はそれを聴くだけで「小雨が降っているな」「大波が海岸の岩にあたって砕けているな」などと想像できる。面白いことに、景観を描く音は人間の心理を暗示するものとして使われることもあるという。たとえば、山を駆け抜け木々を揺るがす「山オロシ」の音は、登場人物が暗闇のなかで互いに腹の中を探りあう「だんまり」という場面でも用いられている。「山オロシ」を連想させる音は限りなくあるだろうが、それを様式としてパターン化すると同時に、心理的にも読み込んで解釈しているわけである。大太鼓の奏するオドロオドロしい「山オロシ」の音に、「だんまり」でみせる心理的な不安感を重ねあわせ意味づけているところに、当時の庶民の聴覚的な思考の枠組みを知ることができるのだ。
このように、私たちを取り巻く音は文化的な事象であり、その音から何を連想するかはそれぞれの時代や生活環境によって異なっている。ある人には心地よい音であっても、別の人にとっては騒音でしかないこともあるだろう。音に限らず、あらゆる事象には、表層的なレベルの背後にその時代や地域や個人の思考の枠組みがある。それを知ったうえで文化を眺めると、また違った姿が見えてくるに違いない。