アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#55

「もの」を手にするということ
― 鄭玲姫

(2017.07.05公開)

私は常々、ものを作る人を尊敬している。
私自身は全くものを作ることが苦手で不器用だ。平面から立体へ、白から多色へ、無から有への造形に関しては何も産むことができない。寧ろ、ものや作る人への関心の方が高い。無責任に対極にいる立場で、「好きか嫌いか」「使い易いか」「よい形か」の判断しかない。そうして手に取り、使ってきた。作る人の立場で判断したことがないのだ。
以前、ある陶芸家との雑談で「ものを作らない人間が、作り手の作品にやたらと意見を言うのは余計なことだ」と聞かされた。作れないのなら言うな、と心の中で叫んだという。これはかなり厳しい話だと私は思った。意見を言うのには勇気がいる。褒めるのは楽だ。その陶芸家は、苦労も知らず、作れない者がとやかく言う資格はないと言いたいのだ。
多くの作り手は、「何を作ればよいのかを悩み苦しんだ末の形」になるという。すべてがそうでないにせよ、かなり悩むことが常だと。それだけに完成した時の達成感は、苦労した分、大きな満足を伴うだろう。そしてある程度の自信がなければ発表もしないし、ましてや売ることもしない。実は私も何十年か前、陶芸に手をつけたことがあった。数点のやきものを産みだした時、これはゴミだ! こんな資源の無駄使いは止めようと決心した。
そんなことを経験するにつれ、ものを産みだすことの大変さを痛感した。私には才能がないが、例えあったとしても人の評価を気にするあまり、すべて引っ込めてしまう程の小心者だ。それよりも、人の作ったもので空間を創ることの気軽さは、私が救われる唯一の手段なのだ。
作り手にとって、人がよい評価をしてくれたり買ってくれたりすれば勇気が沸くし、元気が出ることは生き甲斐だろう。しかし多くの作り手を知り合いに持つと、そのかかわりに不便さを感じるのは否めない。そのせいか、古いものに接する時に一種の安堵感を抱くのは、作り手の顔が見えないからではないだろうか。
そして私は使う立場にいる。李朝喫茶「李青」の店主として、常に人々に飲食を供するために動いている。主婦時代を含めて、さまざまな道具を使う一生を過ごしている。引っ越しや好みの変化によって道具類も変わってきた。結婚、子育てコースを経て、ひょんなことから今の仕事を持つようになった。喉を通って消えてしまう仕事、人の評価をさほど気にしなくても良い自己満足の世界、主婦の延長のようなことが私の唯一の仕事となった。それは、自分の生い立ちにかかわる韓国文化に密着した発想を土台に始まった。
父親は幼い頃、日本の占領下にあった朝鮮から渡り、艱難辛苦を経て、ある程度の平安を得た後に辿り着いたのが、故郷の古人が遺した李朝の工芸品だった。それらのものに囲まれて育った私が、李朝工芸を軸とするようになったのは当然かも知れない。
ただし、私の所有する李朝の工芸品はすべて、結婚して子育てが一段落した頃から収集したものだ。当然ながら、高額な工芸品や美術品として評価の高いものは眼の前を通り過ぎ、自分の生活水準に合った手頃なものから追いかけた。全国の道具屋、市、そして旧知のご縁で我が家に来たものが殆どだ。
限られた予算から選び、悩み、ようやく手に入れた時の感激は、もの好きなら誰でも体験するはずだ。李朝工芸のみならず、作り手の温かい心が感じられるものはどんなものでも手に入れた。それを家の中にバランスよく配置する楽しみは、至福の極みだ。そして心地よい空間を創ってくれるすべてのものが、作り手の卓越した技に拠るものだ。
だが、今のミニマリズムという言葉は多くの作り手にとって、恐らくよい響きではないはずだ。作り手が存在する限り、必ず使い手を要する。そのため、シンプルで何の装飾もない、必要最低限の志向が蔓延するとどうなるだろう。
作り続ける一方、買う人が限られれば、さすがにものが溢れてしまう怖さ。大切に何代にもわたって受け継がれていく程の優れたものと、使い続けて消耗していくものとの差の曖昧さ。矛盾を抱えながらも「もの」は産まれていく。
李朝の工人たちを含め、昔の作り手が茶碗一杯の糧を得るために作ったものが今も大切に使われているということ。そこには工人の心が生き続けている。だから私は現代の、尊敬する作り手の方々に心から声援を送りたい。

010506


鄭玲姫(チョン・ヨンヒ)

1947年大阪生まれ、京都育ち。1998年に李朝喫茶「李青」(京都市上京区)をオープン。
東京神田にあった茶房「李白」を訪れ、大きな刺激を受ける。文化都市京都にも李朝文化を紹介すべく空間を創りたいと一念発起。「李白」主人、宮原重之氏とは李朝仲間として交流を深めている。