(2016.12.05公開)
裁縫道具をたずさえ、移動したその場で洋服を仕立てる流しの洋裁人として活動する原田陽子さん。全国各地のイベントや百貨店に出店し、注文を受けるとサンプルを試着してもらい、寸法を測って1着ずつ縫い上げる。洋服屋に行けばあらゆる既製品が簡単に手に入る今、なぜさまざまな場所に赴き、客の目の前で手間暇をかけて服をつくるのだろうか。その理由を「閉塞感が漂う今の社会で、突破口をみつけるきっかけにしてほしい」と語る真意と、流しの洋裁人が誕生した経緯をうかがった。
———原田さんは岡山の縫製が盛んな町で生まれ育ったそうですね。
近所の家がジーンズの縫製の下請けをやっていて、パートのおばさんたちがそこで作業をしていました。ジーンズは10本くらいをロックミシンで続けて縫う箇所があります。その10本は糸がつながったままなので、糸と糸のあいだを切る作業があるんですね。それをわたしは、見よう見まねで手伝っていました。物心がついたときにはそんなことをしていましたから、将来は服に関わる仕事をしたいと思うようになりました。
———大学卒業後はアパレルメーカーに就職したそうですが、どんな仕事をしていましたか。
ファストファッションの服を企画製造するメーカーに入社しました。職種は営業だったので、商談を終えた後に店頭をリサーチして次に流行りそうなものや売れ筋の商品を購入し、企画会議で毎週発表していました。それが売れそうだと判断されると、デザイナーがリデザインした型の仕様書と購入したサンプルを中国の工場に送るんです。すると1枚のサンプルが何千枚にもなって2、3週間後には会社の倉庫に届きます。わたしは営業職だったので、中国の工場で何をやっているのかみたことがなくて、送られてきた大量の商品を目にするととても不思議な感じがしました。
工場の閑散期には、まったく売れないような商品をつくることがあります。自社の工場ではないので、売れない商品でもつくって生産ラインを確保しておかないと、他のメーカーに生産ラインを押さえられてしまい、自分たちの商品の生産ができなくなるからです。そしてできた商品は店頭ではほとんど売れませんし、わたしもつくりたくないし、きっと店頭の人も扱うのは嫌だと思っていました。
でもわたしが働いていた会社は利益を出して、社員に給料やボーナスを払って、地域に多額の税金を納めていました。それはすごいことだと思う反面、「わたしは誰のためにものをつくっているんだろう」という葛藤がありました。そして働いて2、3年目のときから自分の中身が引き裂かれるような思いを抱くようになりました。
———その後、転職した先で衝撃的なことがあったそうですね。
仕事は4年ほど働いて辞めました。営業として数億円の売り上げを達成しましたし、自分が企画した商品を世に出すことができました。ただ、仕事では実際に手を動かして服をつくることはありませんでした。次は時間的に余裕のある仕事をしながら、服をつくる技術を学ぼうと思ったんです。そこで、わたしが卒業した武庫川女子大学で、授業を手伝う助手として働きながら、土曜は服飾の専門学校に通いました。
助手をした授業で、学生が自らデザインした服を縫うというものがありました。その授業でわたしは「自分たちの着ている服も世界のどこかの工場で誰かが縫ってくれている」という話をしました。するとある学生が「そんなことが今も行われているんですか」ということを言ったんです。
その発言にわたしは衝撃を受けました。でも考えてみれば当然です。服がつくられているところをみたことがないんですから。それに学生だけではなくて、わたし自身も服の生産現場についてよくわかっていないことに気づいてショックを受けたんです。それからさらに服飾について学んで、服ができる過程をみせられる場をつくりたいと思うようになりました。
———アフリカのガーナを訪れたとき、流しの洋裁人を行うヒントが得られたそうですね。ガーナではどんな経験をしたのでしょうか。
ガーナで青年海外協力隊をしている友達を訪ねる機会がありました。ガーナでは、道路沿いに半分開け放したコンテナのような店舗がずらっと並んでいて、その中で食料雑貨屋や車の修理屋といったいろんな店が営業しています。そこで、仕立て屋をみつけたんです。そこには「マダム」という感じの女性店主と、スーツのような制服を着た若い女の子が働いていました。女の子はマダムの指示で布にアイロンをあてたり、ミシンで縫ったりする弟子のような存在です。
わたしはマダムに、服をつくるところをみせてほしいと頼んで、はじめから完成までみせてもらいました。デザインはポスターに描かれている中からわたしが選んで、マダムが女の子たちに指示して、ワンピースを縫い上げました。3時間ほどで布から1着の服が完成した手際の良さにも驚かされましたが、人の手で服が仕立てられていく様子に圧倒されました。これが閉鎖された工場の中ではなく、道路脇のコンテナで日常生活の一部としてふつうに行われているんです。周りの店では揚げものをしたり、お餅みたいなものをついているし、食べものをつくることと同じように服をつくっている。いろんな人が自分にできることをみつけて、たくましく生きている感じがして、とても自由だと感じました。これこそものづくりの原点だと思いましたし、わたしも服をつくることを通じて、日本の社会で何かできないかと考えるようになりました。
———それから、流しの洋裁人をはじめて実施するまでのことを教えてください。
日本で服をつくる過程をみせるためにどうすればいいのか。学びながら試行錯誤をしたいと思って、2014年に京都造形芸術大学の通信制の大学院に入学しました。そして担当の先生のアドバイスもあって、9月の学園祭でこれまで考えてきたことを一度かたちにしてみることにしました。それが6月のことでしたから、9月までの3ヶ月で、移動した先で注文を受けて服を縫うというコンセプトを考え、「流しの洋裁人」というネーミングやロゴまでつくりました。やることはいくらでもあって忙しかったですが、自分のやりたいことに向かっている充実感がありました。
ただ、現実的に考えると注文は2、3着あればいいほうだと思っていました。300円の食べものを売っている学園祭で、1着の値段を数千円から一万円くらいに設定していましたから、ほとんど売れないだろうと思っていました。それが驚いたことに合計で10着の注文が入りました。予想していたよりも時間がかかって、後日、縫ったものを送ることになってしまいました。でも「流しの洋裁人」活動に共感してくれるひとが思ったよりも多くいて、大きな励みになりました。
———流しの洋裁人では主にパジャマを仕立てているそうですね。なぜパジャマを選んだのでしょうか。
近所のスーパーに買いものに行けるような、部屋着でもないおしゃれすぎない、ちょうどいい感じの服って意外と売っていないんです。これはわたし自身も日ごろから感じていたことなんですが、わたしの母はもっと困っていて、普段着がないとよく言っています。一般的な洋服屋で売っているパジャマや部屋着は、かわいらしいもこもこした感じの若い女の子向けか、着心地だけを考えた外出できないようなものばかりです。部屋の中で着るだけならいいですが、宅配便の配達に来た人にもそのままでは姿をみせたくありません。年齢が上がれば上がるほど、ちょっとした外出にも耐えうるパジャマや部屋着はみつけるのが難しくなります。
それに服を仕立てるなら、着たときにより心地よさを感じてもらいたいとも思いました。人間は大体、1日の3分の1の時間を寝て過ごしますよね。長い時間肌に触れるものを、選びぬいた布で一人一人の体のサイズに合わせてつくれば違いがわかってもらえるはずです。ですから、シンプルなデザインで上質な素材のパジャマをつくろうと決めました。
———お客さんからはどのような反響がありますか。
お客さんから「懐かしいわ」と言われることがよくあります。70代から上の世代には、花嫁修行で洋服を自分で縫っていた人たちがいて、わたしが服をつくっていると懐かしがってくれます。40代くらいになると家庭科で洋裁の宿題があって、母親が代わりに縫ってくれたことがあるそうです。
つくったひとの顔がわかる服は、それだけで特別なものになります。わたしが仕立てた服を買ってくれたあるお客さんは「あの服を着るたびにあなたの服をつくっている光景が鮮明によみがえってくる」と言ってくれました。何かをつくる者にとって、これは最高に嬉しいことばです。
———流しの洋裁人の活動を通じて、どんなことを伝えたいですか。
服は人が縫っている、ということです。さらに他にも、活動をはじめてから自分が伝えたかかったものがあることに気づきました。
流しの洋裁人をやっていると「あなたをみていたら、がんばろうと思った」と言ってくれる人がいます。それはわたしの活動が、新しい働きかたの提案になっているからだと思います。
わたしは会社で働いているうちに、自分が何のために仕事をしているのかわからなくなりました。働くことで何かをつくり出して対価を得ているのに、今の社会は何かをつくって感謝される、その単純な喜びを感じにくくなっていると思います。
わたしは会社を辞めてから、自分にできることをすべて寄せ集めて今の活動をしています。ただ、やっているのは人前で注文を受けた服を縫うという単純なことです。それが共感をいただけているのは、好みの肌触りで体のサイズに合った服がほしいけど、自分でつくるのは難しいし面倒だと思っている人が多くいるからでしょう。つまり他人が面倒だと感じていることを、自分の得意分野で肩代わりしているんです。これはガーナの道路脇で働いている人たちの仕事と同じで、誰もがみつけられることだと思います。
自分にできることを全力でやって、目の前の人に喜んでもらう。そんな流しの洋裁人が、新たな働きかたに気づくきっかけにもなれば嬉しいです。そのためにも長く続けていくつもりです。
インタビュー・文 大迫知信
2016.10.12 スカイプにてインタビュー
原田陽子(はらだ・ようこ)
1984年、岡山県生まれ。幼いころは近所のGパンの内職場が遊び場となり、小学生になると服をつくって遊んだ。2003年に武庫川女子大学生活環境学部生活環境学科テキスタイルアドバイザーコースに入学。卒業後は岐阜市のアパレルメーカーに営業・企画として入社。ファストファッション業界の仕組みを知り、自らが理想とする「服をつくること」との乖離を感じるようになる。その後退社し、11年からは武庫川女子大学生活環境学科兼、短期大学部生活造形学科でアパレル関係の授業の副手・助手として働く。授業の中で、服が人の手で作られていることを知らない学生が増えていることに気づいた14年からは京都造形芸術大学通信制大学院(修士)入学。同年9月から店舗を持たずセミオーダーの服をつくる「流しの洋裁人」の活動を始める。日本各地のイベントや百貨店などへ、現在までに30回ほど出店。参加者と一緒に服をつくるワークショップも行う。
大迫知信(おおさこ・とものぶ)
1984年生まれ。大阪工業大学大学院電気電子工学専攻を修了し