アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#45
2016.11

本、言葉、アーカイヴ

後編 共有し、受け渡していくために
6)伝えるために、表現を昇華する
小森はるか+瀬尾夏美さん(2)
報告会のようす©Komori Haruka + Seo Natsumi

報告会のようす©Komori Haruka + Seo Natsumi

最初のボランティアから帰ってきてからも、ふたりは毎月10日間ほど沿岸部に出向いていた。そこで出会ったひとの発言や風景を記録して、2ヵ月に一度の割合で、東京や京都などの各地で「報告会」を行っていく。回を重ねて震災後8ヵ月ほど経ったころ、その報告ではうまく伝わらないという経験をする。

———2011年12月、京都大学で報告会をしたときは文化人類学の授業だったんですが、講評で先生に「あなたたちの見聞きしたことは、研究のレポートでも表現でもないし、中途半端。どう見ていいかわからない」と言われたんです。
東京と東北を行き来している自分たちにとっては、どうやって報告するかは切実なことで、いろいろ考えていたけれど、少し距離が離れた京都で、9ヵ月も時間が経っていると伝わらないというか。自分たちには、距離をジャンプする力がなかったんだと思います。
そうなったときに、ちゃんと伝えることを次に考えないといけないと思って。わたしは絵を描いていて、小森は映像をつくっていたのもあるけど、自分たちなりの表現を昇華していくことを、次の段階でやらないといけない。それも、できるだけていねいに、誠意あるうえで表現しないと、気持ち的にしんどいと思いました。(瀬尾さん)

その数ヵ月後、ふたりは陸前高田に移り住んだ。そのまちのことを表現するためには「自分たちの体をその土地の仕様に鍛え直し、体を合わせることをする」必要があると考えたからだった。
土地を身体にたたきこんで昇華して、作品にする。その土地とそこに住むひとびとについて何か表現したいなら、移り住むのは当然とも言える。けれど、すべて流されてしまった場所に飛び込んでいくのは、並大抵のことではない。瀬尾さんの決断は早かったが、小森さんは移り住むことに迷いを感じ、揺れた。それでも最後には東北に身を置いて撮影したいと思うようになり、踏ん切りがついた。
陸前高田には住むところがなかったから、すぐ近くの住田町に住み、小森さんはまちの蕎麦屋で、瀬尾さんは写真館で働き始めた。”ガチで”仕事しながらワークショップなども開催し、休日はスケッチに出たり文章を書いたり、写真を撮ったり、という日々だった。

———わたしは陸前高田の流された写真館で、一応カメラマンとして働いていて。いわゆる卒業式の写真を撮ったりとか、流された写真を遺影に加工したりとか。家族が亡くなった店主と一緒に仕事をする状況でした。小森は被災して流され、ひとり残された店長の娘さんがやっていたお蕎麦屋さんで働いていました。ふたりともまちと密接した働きかたをしていたと思います。
そうしてまちのひとと関わっていると、まとめる、発表するという気持ちがなくなっていきました。仮設住宅のこともあるし、家と家のことなど、知れば知るほどものを言い切るのが難しくなりました。(瀬尾さん)

まちとひとに深く入っていくなかで、何を、どう表現するかが見えにくくなる。それは、ある程度想像できる状況でもある。作品をつくって発表するモチベーションが見いだせなかったときに、制作のきっかけとなったのは、被災地から遠く離れた場所でのできごとだった。

———2013年の春に、ロンドンのレジデンスに呼ばれたんです。そのときに持っていったのが『Kさんが話していたことと、さみしさについて』という作品でした。2012年に出会ったおばあちゃんに、1年間ずっと話を聞いて、高田の風景の変化をまとめたものです。すでに発表していたんですけど、あんまりしっくりこなかったし、お客さんにも作品なのか何なのかわからないと言われてしまって。
それがロンドンでやったら、内容が東北の震災と思われていない状況なんですが、このまちの風景の美しさはなんとなくわかる、おばあちゃんの弔いの気持ちは母に対しても同じだとか、抽象度が高い、別の会話ができたんです。作品をつくるってこういうことだよな、と思って。高田に戻ってわたしたちがすることは、作品をつくることだと思い直したんです。(瀬尾さん)

ロンドン1

ロンドン3

「Calling from the waves」アートアクションUK(Husk Gallery / ロンドン)©Komori Haruka + Seo Natsumi

高田に戻ると、ちょうど復興工事が始まり、本格化していた。山を削ってベルトコンベヤーで12mの土を運び、昔のまちを復活させようとしていて、“SFのような”風景が生まれていく。そのとき、瀬尾さんは驚くべき事実に気がついた。

———被災したまちには何もないってみんな言うけど、残された道路とか、家の跡にみんな花を手向けていたんですね。そんな場所がなくなることを、あるおじいちゃんは「まだ失うものはあるのか」と言っていました。何もなくなってしまったと2011年に言っていたひとたちが、もう一度失う。そうなることに気づかなかったことに驚きました。
わたしたちが2012年から撮ってきた、描いてきたものに何が写っているかというと、この痕跡だったんです。かつてのまちと今のまちをつなぐ痕跡が残っていたんだ、と気がついて。痕跡が身ぐるみはがされる前に、この痕跡で語られることを聞きたいと思った。同時に風景や、その場にひとがいる風景を撮って、この痕跡でしか想起されない記憶を残そう、と。それで映像の作品をつくろうと決めたんです。(瀬尾さん)