アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#97

ツイッター
― 瀬尾夏美

(2021.01.05公開)

いつも使っている道具についてというお題をいただいたのに、思いつくものが何もない。それがさらに仕事に関わるものとなると、はてどうしようもないと気がついた。わたしには、長年大事に使っているものとか、これじゃなければならないものとか、そういうものがひとつもないのだ。
わたしのやっていることは、どこかを訪れ、誰かの話を聞き、文章を書いたり、絵を描いたりすること。旅先にいたり移動中だったりすることがわりとあって、文章はいつも持ち歩いているノートパソコンやスマホで書き、絵はどこでも手に入る安価な画材を使うことも多い。計画性のないずぼらな性格も相まって、仕事に関わるほとんどの道具が代替可能になっている。
これじゃお話にならないと思ってもうすこし考えてみたら、ずっと使い続けているものがひとつだけあった。ツイッターである。
わたしがツイッターを本格的に使い出したのは、東日本大震災が起きてわりとすぐの頃だった。当時は東京の美大の学生で、絵画を学ぶために進学予定の春休みに震災が起きた。同級生とシェアハウスをしていたため、しばらくの間はいろんな人の溜まり場になっていて、テレビを囲んではわいわいと議論をし、非常時なりの興奮があったのを覚えている。
一方夜中ひとりで眺めるツイッターのタイムラインでは、大量のまことしやかな情報と、被災地域からの悲鳴のような声、そして、「わたしは何をするのか」「どんな態度を取るべきか」と自問自答する、あるいは互いに問いあうようなつぶやきが飛び交っていた。そこでわたしは、「絵描きはいま何をするのか」というだいぶ抽象的な問いにぶつかってしまう。
それまでのわたしは、表現とは社会に関わるもので、自分がするそれも例に漏れずそうであるという超基本的なことすらよく理解していなかった。自分の見えている範囲の関心事から何かをつくり、大学で見せるという世界設定しかなかったのである。しかし、地続きの場所で未曾有の災害が起きてしまったいま、もはやそんなことは言っていられないような気がしてくる。
とりあえず落ち着こうと思って開いたスケッチブックに、自分の右手がいつも通りの手癖みたいな線を引いた時、ああこんなことをしている場合じゃないと強く思い、その3月の終わりに、わたしは友人のひとりを誘って被災地域を目指し、レンタカーを走らせた。
ボランティアという名目で東北沿岸をめぐっていて気がついたのは、自分は泥かきが下手だということと、被災をめぐるさまざまな語りやそこにある風景など、わたしがその場で受け取ってしまうものたちはおそらくとても大事なもので、これらは誰かに手渡されるべきだということだった。
もちろん時間をかけて丁寧に作品にできればいいのだろうけれど、そんな勇気もなかったし、何より被災地域で起きることはあまりに多様で、しかも変化が早いため、ただでさえ忘れっぽいわたしが憶えていられるわけがない。だから、とにかく書き留めておかなくては。当時学んでいた絵画という技法で描くのは、ちょっと手が追いつかなさそうだから、もっと速いメディアが欲しい。それでわたしは、被災地域で見聞きしたあれこれをツイッターに書き綴り始める。
それからわたしは10年近く、日々旅先で見聞きしたことをツイッターに書き続けている。飽きっぽいわたしがこんなに長く続けてこられたのは、ツイッターが不特定多数の人が見る場所だからである。
それゆえに、最初のボランティア旅の道中で被災地のことを発信した時には、自分なりの小さな決意があったと思う。一度被災地を発信する美大生になってしまったら、もう途中でやめられないと思ったし、今後の作品発表にも関わるかもしれないという不安も過っていた。でも、そんな個人のちっぽけな心配事より、ここで起きていることの断片が文字で記録され、細々でも誰かに受け取ってもらえる可能性があるとしたら、そちらの方が大事だと思った。
ツイッターがわたしの相棒として最も機能したのは、他でもなく、陸前高田で暮らしていた3年間だった。当時わたしは被災して仮設店舗になった写真館で働いていて、その仕事の間に、とにかくたくさんの大事なことを見聞きしていた。そうして日中に身体に溜まった言葉や風景、出来事たちを、夜中の散歩の道中でツイッターに書き綴ることで、現場に暮らしどっぷり入り込みすぎる自分と、表現者の端くれとしてこの場所にいようとする自分のバランスを取ろうとしていたのだと思う。ツイートを読んで反応を返してくれる遠方の人たちに、この土地のことを報告する気分で日々を送れていたことにも、ずいぶん救われた。
さらに、わたしの文体は紛れもなくこのツイッターによって形成されてきたということも追記しておく。他者に聞いた話を、特定の場所の出来事を、不特定多数の人が見るタイムラインに書く。プライバシーの配慮をしながら、変な誤解がなく、でも誰か(できればそこには、わたしの知らない、普段の生活では出会えない人たちが含まれていてほしい)へと、ちゃんと届くであろう塩梅を探る。140字という制限があるからこそ、細部を切ったり、言葉が大胆に選べたりすることも、わたしにとってはよかった。
そして何より、ツイッターはすべてのつぶやきが勝手に溜まっていくのがいい。これまでのログを使って、被災地域で書いてきた言葉を再編集してまとめ、本も出来た。『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(2019/晶文社)という水色の本で、この10年を振り返るのにもいいかもしれない。こちらを読んでいただけたらとても嬉しい。
ということで、ツイッターには感謝している。この10年でプラットフォームとしての質は変わってきて、配慮しなくちゃならないことも増えたけど、ずぼらなわたしにとっては、言葉たちの置き場所として、これ以上いい道具はいまのところない。なので、まだしばらくお世話になりたいと思っている。

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瀬尾夏美(せお・なつみ)

1988年、東京都足立区生まれ。宮城県仙台市在住。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくっている。2011年、東日本大震災のボランティア活動を契機に、映像作家の小森はるかとの共同制作を開始。2012年から3年間、岩手県陸前高田市で暮らしながら、対話の場づくりや作品制作を行なう2015年宮城県仙台市で、土地との協働を通した記録活動をする一般社団法人NOOK(のおく)を立ち上げる。現在も陸前高田での作品制作を軸にしながら、語れなさをテーマに各地を旅し、物語を書いている。ダンサーや映像作家との共同制作や、記録や福祉に関わる公共施設やNPOなどとの協働による展覧会やワークショップの企画も行なっている。参加した主な展覧会に「ヨコハマトリエンナーレ2017」、「第12回恵比寿映像祭」など。単著に『あわいゆくころ  陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)があり、同書が第7回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。