(2018.01.05公開)
私は京都でTALK TO MEというブランド名で既製服のデザインをしている。
1着のお洋服が生まれる工程はさまざまで、デザインが生み出される前段階から含めると構想自体は数年前から考えていたりする。デザインやコンセプトを考え、それを具体的に形にするために図面を描いたり、生地をボディにあてて形を捉えることからスタートすることもある。型出しから製品になるまでに使う道具といえば、幾つか上げることができるが、私は道具そのものに強いこだわりはなく、どちらかというとそれを使っている際の時間や記憶を大切にしてきているように思う。今回は「針と糸」に主題を置いて、彼らと共に歩んできた時間と記憶を記したい。
針と糸
デザイナーを志したのは幼稚園くらいと早く、そのころから遊びで縫物のようなことはしていた。現在もお洋服が出来上がる過程で必ず使用するのが針と糸だ。縫い方もアイテムの始末によって色々なやり方があるが、もっとも好きな縫い方はなんといっても「手まつり」だろう。今では仕立てのよいコートやドレスなどの裾始末などでしかあまり見られないが、手まつりがもつ身体的な所作と時間感覚がたまらなく好きである。忙しくてもこの工程は苦にならない。手まつりを頻繁にやる方も少ないと思うのでその内容をお伝えする。
生地は沢山の糸の集積でなっているが、まつるという所作はその生地の糸をほんのひと針、表から見て縫い跡が響かないようにすくいあげ、裏の縫い代などにとめ付けることだ。
この所作は決してダイナミックではないが細心の注意を払い、無駄なく手を動かし、時に生地の特性を読み取って手の動きを変化させる。「記憶に残る手まつり」というのもあり、例えばそれは富山県で織られている極薄のしけ絹という生地を手まつりした時だろう。作業する手元が生地を通しても透けて見えるほどの薄さで、空気を縫うか静水を縫うかという気分だ。実際、空気を縫うってきっとこんな感覚ね、と縫っている間は空を旅するような気分だった。
しかし、こういったケースはそんなに多くはなく、大方は力の抜けた全身全霊で淡々と進める。手まつりの長さが長くなると肩も凝ってくるが、そこで私の頭では、今まで出会った女性(すれ違っただけの女性もいる)の忘れられない表情や言葉がループしだすのだ。本当に謎だけれど、手まつりという工程の時間で湧いてくる。出てくる女性たちの特徴は、なんとなくその表情や言葉の背景に膨大な感情や思いが詰まっているように感じたものばかりだった。要するに私は自分が「理解できないこと」を忘れることが出来ず、それがストックされているのだ。手まつりという工程がスイッチになり、ストックされたフィルムの1枚が湧き出てくる。なんとなく活字にするとしんどそうな印象を受けるかもしれないが、私自身は嫌な気持ちはなくただ映像を流している状態に近い。しかしふとした瞬間に「もしかすると彼女のあの時の表情はこんな気持ちだったのだろうか」と思うことがあるのだ。答え合わせなんて永遠に出来ないけれど、それがほんの少し理解できたような感覚は歳を重ねた喜びを感じる時でもあった。分からないことが少し、寄り添える気持ちになる、というのか。手まつりを行う所作(時間)には不思議とそういったことを思い出したり、見つめたりする心の動きになる何かがあるのかもしれない。この文章を書く前、偶然にも立心偏について思いを巡らせ、それにまつわる漢字を調べていた。立心偏は心が元になっている偏だが、「忙」という字はつまり心が亡くなるというなんとも寂しい字である。よくできている。心が亡くなってはよいものは作れない。文章の最初に、手まつりの工程は忙しくても苦にならない、と記したが、私にとっての手まつりは心を取り戻す所作なのかもしれない。針や糸の歴史は古く、最初期は木や骨に糸通しの穴を作って針にしていた。とても原始的でシンプルな道具で、それゆえどこまでも人間の身体速度と共にあるように思う。この原始的な速度が思考を整えたり、己を振り返る要因になっているのかもしれない、と思うとこの単純な道具恐るべしと思うのだった。
池邉祥子(いけべ・しょうこ)
池邉祥子服飾研究室
既製服TALK TO ME、仕立服 talk to her、古い衣服の収集と保存 research&collect。
この3つを軸に京都にて衣服制作と衣服のリサーチを行う。
sicl.jp