(2017.08.05公開)
かせあげ、座繰(ざぐ)り、トンボ、杼(ひ)、紡毛機。
これらは私の仕事「ホームスパン」にかかせない道具の一部です。
ホームスパンとは、刈り取った羊の毛を洗い、染色をほどこし、手紡ぎした糸を手織りして最後に縮絨をかけて完成する毛織物。基本的には機械を使わず全て手作業で行います。お察しの通り、気の遠くなるような作業工程で、実際1枚のマフラーを仕上げるのに10日程度かかる(私の仕事が遅いというのも理由のひとつ……)ので、ホームスパンの故郷、英国ではすでに産業としては消滅してしまいました。が、なぜか英国から遠く離れた日本の盛岡には、ホームスパンが地域産業として今でも根付いています。その理由については、いろいろと思うところもありますが、それはまた別の話。今回は、冒頭にも書いたホームスパンにまつわる道具とその作り手のお話を。
ホームスパンに関わらず、織りには様々な道具が必要になります。何もわからず織りの世界に飛び込んだ時にまず驚いたのが、揃えなければいけない道具の種類と数でした。はじめはやみくもに買った道具を使って織りのまね事をしていましたが、その後、入門した工房で作っているオリジナルの道具を使ってみたら、驚くほどストレスがない。同じ作業をするのにも、かなり時間が短縮できるうえにきれいに仕上がるではありませんか。
この道具を作っていたのが、私のホームスパンの師匠、清野詳子氏のご尊父である清野新之助氏でした。
新之助先生は、戦後間もなくほぼ独学でホームスパンの仕事を始めた方です。当時はあらゆる物資が不足していて、マフラーや服地の注文が絶えなかったそうです。どうすれば、効率良く生産性をあげられるか。そこで新之助先生が注目したのが「道具」でした。
明治初期に毛織物が日本に導入されてから約130年たらず。毛織物に必要な特殊な道具は本場海外製のものが主流で、ほかには絹や木綿などの着尺を織るために作られた日本製の道具を流用していたようです。
ところが海外製の道具の中には、体の大きな外国人には適当でも、小柄な日本人にはゴツくて重すぎたり、大きすぎるため使いにくく繊細な織りには向かないものもある。かといって、ウールより細い糸を扱う着尺用の道具では、事足りないこともしばしば。
そこで「日本人に合う道具を作れば、より効率があがる」と考えた新之助先生がもっとも力を注いだのが、道具をコンパクトにして軽量化するという点でした。手持ちの道具が仕事の内容に合っていない、と感じたら、織りの手を止めてでも自らの手でどんどん改良を重ねていったといいます。織り幅、糸の細さ、組織などに応じて何度も試行錯誤を繰りかえし、そのつど進化を遂げた道具は数十種類に及び、今でも多くの織り手の仕事を支えています。
私が新之助先生と出会ったのは、先生が80歳も半ばを越え、織りの仕事より道具作りが転じて木工に夢中になっていた頃。一度作った道具でも「もっとよくなるんじゃないか?」と常に思考を巡らし工夫を重ねる姿は、真剣に遊ぶ子どものようでした。94歳で亡くなるひと月ほど前まで、ずっと「作る」が止まらなかった新之助先生。「ものを作る」とは何か? その本質を体現するような生き様は、私の仕事の指針となっています。
過日、縁あって宮崎県西臼杵郡日之影町に、廣島一夫さんと飯干五男さんという竹細工職人の遺した作品をたずねる旅をしました。おふたりが作っていたのは、ザルや籠、魚を捕る魚籠(びく)、“かるい”と呼ばれるこの地域特有の背負子といった日々の暮らしに必要な道具、いわゆる「民具」です。表舞台に上がる事がない裏方の道具にもかかわらず、どれをとっても繊細に編み込まれた姿が美しく、しかも毎日の仕事に堪えうる丈夫さを兼ね備えたものばかり。実際、おふたりが作った道具を20年以上使っている方から「とにかく軽くて使いやすいし、けっこう雑に使っていても壊れないよ。他の方の道具じゃ、こうはいかない」という話を伺い、ふと新之助先生の道具を思い出しました。
よい道具というのは、みな同じ。美しくて丈夫なのです。
上杉浩子(うえすぎ・ひろこ)
旅行雑誌の編集者を経てフリーランスの編集・ライターに。2006年の盛岡旅行でホームスパンに出会い、その魅力にとりつかれ東京で唯一ホームスパンの教室を主宰する清野工房に入門。清野新之助・詳子氏に師事。2010年hou homespun名義で恵文社一乗寺店での初作品展。以来、コンスタントに作品展を行う。2017年の作品展は、多治見のギャルリももぐさ(11/11~)、京都Kit(12/1~)。
hou homespun
http://www.hou-homespun.com