(2017.06.05公開)
小さいころのならいごとのひとつであるお絵かき教室に通っていたことから、自然と美術にとりつかれ大きくなった。
芸大にいったわけではなく、美術の成績がよかったわけでもなく、特に絵がうまかったわけでもないのに、今も美術がかたわらにいて自分を救ってくれるのは、この時に出会ったユニークで自由な先生のおかげであろう。
工作に使えそうな、紙片、布、箱はもちろん、コントレックスのピンクのふた、ペットボトル、発泡スチロール、筒、リボン、ボタン、鈴、何かの実など、いつか役立つかもしれないものたちが、家の中をところせましとジャングルのように占拠している。
断捨離とはほど遠い世界。先生はそれらをためながら、捨てながら、使いながら、上手に整理していたのだが、私はどうやらそのあたりは全く受け継げなかった。
幼い時から、一生懸命しても何をするにも人より遅くて、なんとなく劣等感みたいなものがどこかにあった気がするが、ここでは急がされることがなかった。言葉じゃなく空気で肯定されていたのだなと、そのときは無意識だったが、今になって思う。あまりにもその場所は居心地がよすぎて、30歳を過ぎても通い続けてしまったほどだ。
「手のひらのデザイン」という言葉を聞いたとき思いだしたのは、なぜかパンのことだった。
夫のパン屋さんを手伝っていることもあり、マラソンと山登りと博打(今日パンが足りなくても、明日は余るかもしれない)のまざったようなパンの時間に追われる日々の中、つねに、こねたり、たたいたり、まるめたりする作業を間近で見ている。
自然的なこと(発酵やタイミングなど人間の力の及ばない範囲)と、今までの勘や経験、見た目のデザイン的なことなどがからまって、手からひとつのパンがやっと生まれる。
パンのデザインは自由ではあるらしいが、それぞれの生地やパンにあったデザインを考えるのが当然のことらしい。
例えばクロワッサンは生地にバターをたくさん練りこんでいるので、バターが溶けないように、手早く作れるあの形になるのが合理的で自然だそうだ。デザイン(成形)によって、同じパンでもさまざまに食感が変わるのもおもしろい。
理論的なことと創造的なことがあわさって、絶妙なタイミングでその日にしかできない、ひとつの「パン」という作品が生まれる。そしてどんなに時間をかけて美味しく作られても、一瞬で食べられてなくなってしまう。
美味しい時間にリミットがある潔さとせつなさ。それは、少し音楽やパフォーマンスのありかたにも似ている。パンは人々にとってあまりにも日常のものなので、食べている人は誰もそんな風には思わないかもしれないけれど。
どんなに思いを込めてつくっても、うまく焼けなければ捨ててしまうこともある。感傷などにひたる暇はなく、もうすぐに次に向かっていくしかない。描いた絵をなかなか捨てられない自分には、うらやましくもみえる。
ものが残っていく美術とは対極の世界ではあるが、人のからだの中にはいって五感を刺激する感覚、こころをゆさぶられたり、忘れられないという気持ちは共通するものがあるのかもしれない。
お店は対面販売なので、私はそこで売り子をしている。
パンがたくさん並んでいるショーケースの前で無防備にテンションが上がって、素になり、夢中になっている人たちをみていると、そんなことを思う瞬間がある。
つき山いくよ(つきやま・いくよ)
絵画の展覧会や、本の制作、イラスト、時々パフォーマンスもする。
月に一度、子どもたちを対象にした「ほとりで絵画教室」や、イベントに合わせた単発のワークショップなども開催。
最近の展覧会に、ほとりで絵画教室の子どもたちと一緒に開催した「手は口ほどに」(大阪ondo)がある。
「パンとお話 Appleの発音」のパンには、実はパンそれぞれにお話(物語)もあり、ここ数年、さらにボリュームUPした「パンとお話 Appleの発音」のお話の本をつくろうと構想中。