(2022.07.01公開)
この十数年はカメラを少し横において、日本各地で地域創生にかかわる活動を続けてきた。写真を撮ることは少しゆるやかになったが、さまざまな地域との出会いは、わたしのレンズ(眼)の解像度を随分と上げてくれている。そんな(レンズの解像度を上げた)地域の一つが神奈川県真鶴町だ。今回はこの真鶴町の条例『美の基準』について書こうと思う。
『美の基準』は、形のある道具ではない。しかし、よい暮らしをつくるための“ことば”という道具のセット一揃いである。そしてこれらは、福沢諭吉の「ペンは剣よりも強い」のごとく、「ことばは世界を創造する」ことを教えてくれた。
『美の基準』と出会ったのは、2014年。東日本大震災以降、わたしが写真プロジェクト「ローカルフォト」をスタートして間もない頃だ。「ローカルフォト」とは、地域の暮らしを写真に撮ってSNS等で発信し、観光や移住につなげる、住民主導の活動である。これは、2013年の「小豆島カメラ」にはじまり、滋賀県の長浜市や、愛知県岡崎市など、全国で展開している。当時はまだ「ソーシャルフォト」という名前で、大学の講座を受け持っていた。そこの受講生から、真鶴について教えてもらったことが契機となった。
当時の日本は、安倍政権による「ひと・まち・しごと創生(地方創生)」が施行された(2014)ばかり。深刻化する人口減少に対して、国を挙げて本格的な「地域づくり」や「仕事づくり」などの取り組みがはじまった。
それ以前から、産業構造はデジタル化の進展にともなう製造業から情報業への移行が進行していて、カメラマンもその影響を受け、雑誌やCDなどの従来の仕事が急速になくなっていった。クライアントの吸収合併や倒産が相次ぎ、同業者の離職も増えた。デジタル化によって、カメラの解像度が上がれば上がるほど、ますます未来は見えなくなっていった。
デジタル化が進む一方で、地方の衰退も加速する。市街地は荒廃し、昔ながらの商店がチェーン店に変貌する。「カメラマンの仕事がなくなることと、地方の衰退は、実は同じ問題かもしれない」。ようやくそのことに気づいたのが、リーマンショックの前夜だった。「大きく変わる社会に対して、変わらない日常を続けるために、写真でできることはないだろうか?」。日々そう考えていたわたしは地方に通い始め、真鶴と出会ったのは震災から少し後だった。
話を真鶴にもどそう。真鶴は神奈川県の最南端にあり、箱根外輪山と半島で構成される人口7300人弱の小さな港町である。小田原や熱海といった観光地に挟まれたこの町も、ご多聞にもれず、深刻な人口減少に悩まされていた。
初めて真鶴を訪れたのは7月、奇祭と名高い「貴船祭り」の時期だった。すでにとっぷりと暮れ落ちた駅前に降り立つと、少し遠くに「冨士」という居酒屋のネオンがぼんやり見えて、時が止まったような光景がそこにあった。
真鶴に通うようになった一番の理由はずばり、入江の眺め。港を囲んで、すり鉢上にトタン屋根の家が建ち並び、その先に望む青い海とこんもりと茂る森。貴船祭りの翌日、地元在住のデザイナー・知香さんに車で連れていってもらった入江に一目惚れして以来、ずっと通い続けている。まさに運命の出会いだった。
3、40年前は、このような入江の風景は特別なものではなかった。しかし、時が経つに連れ、日本中の海辺や森は開発され、マンションやホテルで埋め尽くされてしまった。それが、今回たまたま出会った真鶴には、奇跡的に昔の風景が、ひっそり残されていたのだった。
その後、真鶴には1993年に制定された「美の基準」という景観条例があって、バブル期の建設ラッシュに住民が一丸となって対抗し、開発を止めた歴史があることを知った。言われてみると、湯河原・熱海や伊豆といった周辺地域は大きく開発をされているのに、ここだけが、かつてのままの風景をとどめていることに気がつく。
変わらない暮らしを守るために、変わっていくことを「変えない」という、当時としては異端とも言える道を選んだ住民の勇気が、町を、入江を、残したのだった。
『美の基準』は、オーストリア出身の建築家・クリストファー・アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』をお手本に、町の良いところを「美」と定義して、69のキーワードでまとめている。「静かな背戸」「実のなる木」「触れる花」というように、町の「無名の美」について、やわらかいことばで構成されている。『美の基準』とはとどのつまり、住民による「好き」の集積なのだ。
真鶴を訪れた人はわかると思うが、眺めから望む入江には「借景」を取り入れた庭園のように、不思議な時間が流れている。しかしわたしが惹かれたのは、その美しさではない。幼少の頃を思い起こさせる変わらない眺めに、住民の「意志の力」を直感したからだ。暮らしを変えないために、命懸けで守った風景の輪郭は、しっかりと深い。
以前、前町長の宇賀さんとお話しをしたときに、氏は「みんなが、どこからでも月が見える町にしたい」とおっしゃっていたが、これほど住民の気持ちを象徴していることばはない、と思う。この素直な思いが、人々が町を守るに至る原動力となったのだろう。
少し話が逸れるが、故伊丹十三さんの映画『マルサの女2』では、バブル期の地上げや乱開発や、それに翻弄される住民が描かれている。役場職員から、真鶴住民と開発業者との戦いのエピソードを伺ったとき、「まるで『マルサの女』みたいですね」と伝えると、まさにそのとおりとのことだった。生前の伊丹さんは湯河原住民で、真鶴とも深い縁があった。伊丹監督の映画『お葬式』のロケも、ご自身の葬儀も、ともに真鶴葬儀場で行われたらしい。伊丹さんの地元に乱開発の嵐が吹き荒れていた当時、自身が隣町の騒動を目撃し、映画制作のインスピレーションになった可能性は十分あるのではないか。
住民の勇気と行動力には敬服するが、もっと驚かされるのは、彼らの先見性だ。“暮らし”や“身の丈”という、「地方創生」以降のまちづくりのトレンドが、真鶴ではバブル期に生まれていた。さらに、通常「景観」ということばは、文化的建造物や景勝地の美しさを指すのに対して、真鶴では住民の暮らしやいとなみを「美」と見立てることで、 “景観なき景観条例” という前代未聞の試みに打って出た。それもこれも、町を変えないための “なけなしの知恵” だったのだろう。
その実、歴史を振り返ると彼らの先輩には、便器を “泉” と命名して「作品」としたことで、芸術の新時代を切り拓いたマルセル・デュシャンや、漁師の魚籠を「花入」として茶道具に変えた千利休らがいる。いずれもモノそのものには手を加えず、その“無名の質”を「美」と見立てることで価値を生み出した。石ころを“ダイヤ”に変えて文化を創った。
チェーン店や高層マンションが乱立して人のいとなみを奪っていく一方で、“関係人口” や “賑わい創出” 等を謳う日本は、目下国を挙げて “景観なき景観” を作ろうと必死になっている。30年前に「暮らしそのものが、最高の景観」と言い切った真鶴の先見性は、令和時代の今、大きな評価に値するだろう。
バブル後期に突然起こったマンション建設。当時既に高齢化社会を迎えていた真鶴町にとって、開発は町の衰退を加速させることを知っていた。熱海や湯河原のような温泉もなく、これといった特色もない小さな漁師町を救うためには、視点を変えるしかなかった。
窓の外に見える風景が役場のほとんどの人にとって生まれてこのかた見続けてきた風景であった。今見ている風景もそれと寸分も違うところがない。しかし、スライドを見たあとは何かが異なって見えた。何が変わったのか、それは見ている自分である。~中略~ 真鶴町の美を探し出すこと……。
五十嵐敬喜・池上修一・野口和雄(1996)『美の条例 いきづく町をつくる 真鶴町・一万人の選択』学芸出版
上記のテキストは、「条例の制定」が決定した1992年当時の役場の状況である。「真鶴の美を探そう!」と満場一致した時、彼らにとって“普段の町”は“特別な場所”に変わっていた。町を変えないために、心が変わった瞬間だった。その後、30年の時が経ち『美の基準』は、先見性が高く評価されている。当時の日本が3年先しか見てなかったのに対して、彼らは遠い未来に照準を合わせていたことに、ようやく今気がつく。
写真プロジェクト「ローカルフォト」を始めて10年と少し。わたしの活動拠点は、都市から地方地域に変わった。容易とはいえない決断をした理由は、カメラマンという仕事を変えたくないからだ。「変わらないために、変わる」。真鶴の『美の基準』は、わたしに勇気を与え続けてくれる。
MOTOKO
写真家。1966年大阪生まれ。大阪芸術大学美術学科卒。1996年写真家として東京でキャリアをスタート。音楽や広告の分野で活躍する傍ら、作品集を発表。2006年より日本の地方のフィールドワークを開始。滋賀県の農村をテーマとする「田園ドリーム」、2013年香川県小豆島在住の7人の女性のカメラチーム「小豆島カメラ」を立ち上げる。以降、“地域と写真” をテーマに「ローカルフォト」という新しい概念で長崎県東彼杵市、静岡県下田市などで写真によるまちづくり事業を実施。主な事業に「長浜ローカルフォトアカデミー」、愛知県岡崎市「岡崎カメラ」、神奈川県真鶴町「真鶴半島イトナミ美術館」など。展覧会は「田園ドリーム 2018」(オリンパスギャラリー東京、2018)、「田園ドリーム」(銀座ニコンサロン、2012)、小豆島の顔 (小豆島、2013)、作品集に『Day Light』(ピエブックス)、『京都』(プチグラパブリッシング) ほか。