(2013.07.05公開)
記憶の糸を手繰りよせてみると、幼い頃にリボンは結ぶよりも先に絵の中に描いていたと思うが、おおかたの人がそうなのではないだろうか。それから女の子だと人形の髪やエプロンのリボンを結ぶことに取りかかり、やがて自分のワンピースや靴ひもに至り、誰かにプレゼントを渡すときに試みるのだと思う。それらはちょうちょ結びであり、本結びのちょっと手前の「とまる」のに「ほどける」という柔らかな結びの状態である。
ところで、この可愛らしいものは、一年を通じて日々に関わっている。
なにかと手にする時が訪れてやまず、本体ではないのに、それに劣らず素敵なもの。
いつもすぐ身近に姿を現すものの、それについて語られたり文字に記されたりすることはあまりないように思う。
もしリボンがなかったなら。花束は? 贈り物は? 身につけるもののちょっとしたアクセントは? 何か見た目にももの足りなく、存在を引き締め、意味や気持ちを込めるための頼りの一つが無いということになる。
とにもかくにも考えるよりもまず、日常の動作や発語の中で何かを自分の意識として獲得することの多い私たちである。日々にときおりやってくる結びの動作の中で、心を現し、封印し、守り、清めるという感覚や、また、受け取る、解く、放つ、という感覚を授かってきた。
紐や糸を手にするときに、それがいかに両手の多くの指に触れるかということも私には興味深い。指一本一本がそれぞれの違った役割を担っていることに気づかされるのは楽しい。指の腹も先も自在に使い、ある時には薬指や小指までも助けに駆けつけるさまは、それぞれの指を擬人化してみると、とても可笑しな光景なのである。
それに人間の体の中で紐に最も近いのはやっぱり腕と手指だろう。紐状のものが紐を扱うことの親近性とその複雑で絶妙な動きを見るにつけても、手が存在たらしめるものの多いことに驚く。
もともと「結び」には守護と呪縛の両方の意味があり、「結び目」は病いであると同時に災いから守る護符にもなる。結び/ほどきには呪術と解放の意味が自然と備わっていったのだと思う。
人が1本の繊維(おそらく麻であったかもしれない)を手にしたとき、それを巻き、結び、組み、編み、織り、手が繊維をあつかいながら、または繊維が手の器用さを育てながら、この、物を束ね留め、自在に曲がり伸びゆき絡むものを重宝した。
紐の持つ束ねたり止めたりする役割は、手の延長として身体の一部に近いもののひとつでもある。人は自分が見ているものになる、もしくは手にしているもの触れているものになる、と言われるが、結ぶ/ほどく動作の時の私たちの呼吸や体幹の使い方を思うにつけてもリボンを手にする時、私たちもリボンと同化している。
そうしてリボンはさまざまな姿に作られてきた。色、素材、織り方、太さ、ディティール。もともとは帯状の織物のことであるが、今ではどこまでが糸であり、どこからが紐であり、また生地であるのか分らなくてもかまわない気がするし、使う場面によって細心にまたは気ままに選べば良いのだろう。
子供の頃の手作りの品からはじまり現在まで、私自身はリボンをまこと勝手にあつかってきたと思う。実用的であれ装飾的であれ、護符的であれ遊戯的であれ、それらが凝縮されたものが備わっているのだから何かしても動じまい、と思っているのかもしれない。まさに可愛いのに頼りになる存在である。しかしリボンの方はまさか私がこんなにリボンのことを語るなんて思ってもみなかっただろう。リボンはただささやかな存在だと思われている。
それにしても私の中でリボンは「ギフト」の欲動の小さな化身であるところが大きい。
世界から多くの目に見えぬ贈り物を受け取りながら生活している私たちはそれらへの返礼は不可能である。この贈与とは自然から受け取る恩恵や、人が生み出す物事から与えられる啓示やひらめきのことである。
それらの返礼不可能なギフトに対して、創作物をギフトと捉え、作品作りを通じて自分も返礼無用のギフトをあてどなく返すことはアーティストにとっての親和的な働きなのだと思うし、いかなる仕事や暮しの中でもギフトの欲求はひそんでいる。手遊びのリボン結びも、どこにつながるとも知れない線を描いているのだ。
ときにはギフトの装備のひとつであるリボンそのものに気持ちを託す
かなもりゆうこ
美術作家。映像やさまざまなオブジェを用いたインスタレーションを中心に作品発表をしている。身近な身体や事物と関わりながら異世界への小さな物語をつむぐ。近作に「トショモノ」「Alphabet of Acanthus (アルファペータ オブ アカンサス)」「Memoriae (メモリエ)」「手の物語」など。パフォーマンス演出に「失われた島への到着の仕方」「What is the Name of This Book?」などがある。