アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

手のひらのデザイン 身近なモノのかたち、つくりかた、使いかたを考える。

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#104

腰差し煙草入れ
― 遠藤 薫

(2021.08.05公開)

私の小さな部屋は道具でひしめき合っている。
あふれんばかりの道具を収める道具箱としての部屋。そのように見渡せば部屋に収められているものは全て、なにかしらの道具なのではないかと思われてきた。
飴色の家具類に収められている、亡きおばあさまの残した糸、針。それらで、今日までおばあさまの残した服を繕い、染め直しながら身に付けている。
壁にかかるは、沖縄のクバの籠。あ、アダンの草履は足が入らなくて、履いたことがない。履いたことはないがきっと涼しい履き心地だろうな、と思わせる佇まいでそこに、ぽんと、置かれてある。ほとんどゴミみたいなものを、使うあてもなく拾ってきては大事に戸棚に並べている。
よくよくこうして考えてみれば、見ているだけで良い類の道具ばかり埃を被りながら部屋に転がっている。
私だって、道具かもしれない、そう考えを巡らせてみることにした。

人間について、道具を作ることそのものが人間らしさなのではないか、と思うことがある。
それはまるで『2001年宇宙の旅』の冒頭のイメージで、幼い頃にみた、あのシーンこそ“人間”の本質だ、と。
地球の一部である素材たちを、地球の末裔である人間の手で変化させ、果ては宇宙へ飛び出そうとする道具を作った。地球遺伝子としての宇宙船と私たち。そのように夢想してみる。
今年は2021年。劇中の人工知能反逆騒動から20年も過ぎたはずの地球上は、思ったよりもゆっくりとした歩みで日々を過ごしている。
あの日、フィルムの中の猿が、棒を持って相手の猿を叩きのめし、人間へと成ろうとしたあの日、あれから道具の歴史は随分遠くまできて、いろんな意味を持ち始めている。

近頃、煙草を吸うのをすっかりやめた。
自動的に、道に落ちている煙草を拾って吸うこともやめた。
コロナ以後、2021年の今、喫煙は紛れもない自殺行為である。拾い煙草など、もってのほか。いつでもいいと言いながらも、明日死ぬのでは流石にかなわないと悟る。
どういうわけか、拾い煙草に限らず、捨てられているものをすぐに拾ってしまう習慣が、私にはある。

言い換えれば、すでに捨てられているが私ならきっとなんとかしてあげられるのではないかと思うもの、または、拾った私のことをなんとかしてくれそうなもの、そういうゴミたちを拾う癖が私にはある、のかもしれない。
ふと、手元のクバの籠の中に目をやれば、近日とくに重宝している道具が入っていた。江戸時代頃のものと思われる『腰差し煙草入れ』である。
道すがら、奈良の骨董屋で叩き売られている古道具の中から拾い上げた。
身に付けるものは自分を示す道具でもあるから、『これが自分です』と人に見せるもの、またはそのように見られてもいいと思えるものを掘り出して身に付ける。
そのそれは、乱雑に積み上げられた他の腰差し煙草入れ達よりも随分と飾りつけが質素で良い。もはや重要な蓋の部分が大きく欠けていて、一見ただただ軟弱そうに見えるが、意外と素材の特性がよく生きている、のではないだろうか。多少の乱暴も耐えてくれそうな、硬度と軟度が適度にある、ように見える。ほとんど打ち捨てられたような風情で他のものに埋もれているが、その扱いは全く適当ではない、不当だ。どう見ても私の目からすれば、放っては置けない佇まいがある、気がする。
私は、これを“私”だと決めて手に収めた。

理解とは常々願望である。願望は祈りである。原初、道具とは祈りのためにあったに違いない。
前に申し上げた通り、私は煙草を吸うのをやめたので、この素っ気ない腰差し煙草入れには煙草もキセルも入ってはいない。
煙草だってかつては神事の際に用いられたものだろうけれど、この腰差し煙草入れにはキセルの代わりに、竹のお箸を入れている。煙草の代わりに、胃の漢方薬等が収められている。
使用例/『お弁当屋さんにて、割り箸もビニール袋もお断りして、食前に漢方薬を飲んでから竹のお箸を取り出し、お弁当をいただく』=環境と健康への配慮。
本当のところ、道具は使い方を規定されてはいない、と思いたい。使うひとの心情をよく写そうとするのが道具の、まず最初の役割である、とすら思える。道具を見立てる際には、用途よりも使い手の心が先立つといいな、と思う。

なぜ煙草をやめたのか。
自身の命が惜しい、と思いたい。
むしろコロナの為に命拾いをしたのだと思う。
長生きをすると決めたら、寝ぐらである地球にもできるだけ長生きをしていて欲しい、という身勝手な動機の環境配慮。
旦那にも煙草をやめてとうるさく迫り、息子の将来を末永く心配していたい。
気長に、落ち着いて、宇宙の旅まで生きていられたら、どうだろうか。
拾い煙草はもうやめたけれど、これからもものを拾う癖は続けることになると思う。
拾うと救われるものが様々あるように思うからだ。

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遠藤 薫(えんどう・かおり)

1989年大阪府生まれ。沖縄県立芸術大学工芸専攻染分野および、志村ふくみ(紬織, 重要無形文化財保持者)主催アルスシムラ卒業。2019VOCA展にて佳作を受賞。同年『重力と虹霓(こうげい)』にて、第13shiseido art egg賞のグランプリを受賞。2020年『いのちの裂け目―布が描き出す近代、青森から』国際芸術センター青森(ACAC)。2021年、秋に沖縄県立博物館・美術館にて招聘作家として展覧会に出品予定。

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