アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#41

町家の宿を営みながら、外国人客の視点をつうじて京都をみつめる
― 北村チエコ

(2016.04.05公開)

南禅寺や平安神宮、清水寺からもほど近い京都市東山区の外れに、小さな町家の宿がある。2軒続きで、1日に泊まれる数は最大で13人。宿泊客の9割が外国人で、なかなか予約が取れない人気の宿である。この「あずきや」をほとんどひとりで切り盛りしているのがオーナーの北村チエコさんだ。宿の運営だけではなく、傷んでいた町家を宿に改修するところから彼女自身が手掛けてきた。北村さんの町家に対する思いや、外国人観光客に接することから見えてきた京都の現状について伺った。

北村さんが運営する宿「あずきや」。二軒続きで、向かって左側の別館「セム」は一軒丸ごと貸し切れる

北村さんが運営する宿「あずきや」。二軒続きで、向かって左側の別館「セム」は一軒丸ごと借りられる

――なぜ町家を宿にしようと考えたのでしょうか?

町家で宿屋をしたいっていう気持ちが昔からあったわけではないんです。町家は自宅を含め、母から3軒を受け継ぎました。でも傷んでしまっていて、壊れたりするとお隣に迷惑がかかるじゃないですか。特に町家は隣同士つながっているので、直すか壊すしかないっていう状況だったんですね。
それなら受け継いだ町家を壊すことはわたしにはできひんなって思って、じゃあ残そうと。でも町家を残すとしても、わたしひとりの経済力では維持できません。貸し出してカフェとかギャラリーとかにすれば、維持するお金は手に入りますが、床をぬいて大きく改装しちゃいますよね。建具とかも好きやったし、それはもったいないので、じゃあ現状維持できる商売は何かっていうと残ったのが宿屋やったんです。

――そのころは何をされていたんですか?

京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)の副手を辞めて旅行したりしていました。それから町家で宿屋をしようと決めたんですが、そのころ他に町家でひとを泊めているところは外国人向けのゲストハウスが一軒あるだけでした。日本人は旅館かホテルに泊まっていたので、わたしのところにわざわざ泊まるのは物珍しさで来はる外国のひとやと思っていました。だから英語だけは最低限喋れないといけないと思って、近所のアメリカ人に習っていました。そうやって英語を勉強しながらコツコツと町家を直していました。

――町家を自分で直していたんですか?

お金もなくて、あまり前例もなかったので、町家の宿屋がうまくいくかわかりませんでした。なので、床を張ったり、コンクリートや壁を塗ったり、もうとにかくやれることは自分でやっていました。やりかたは町家を直してこられた大工さんに教わりました。おじいちゃんの大工さんで、すごい技術があって、町家がなくなっていくことはよくないと思ったはったんです。「町家の保存のためになるなら、まあ、あんた手伝ってあげるわ」ということをおっしゃって、ものすごく安いお値段で、やりかたをいろいろ教えてくださいました。自分で塗ってはがれてきた壁もあって、そいう箇所はお金が貯まったらプロの大工さんとか左官屋さんに塗り直してもらっていました。
表面の上塗りをやめて、中塗りっていうので終わっている壁もあるんです。だから材料の小石とかスサとかが出ているんですけど、それなら自分でなんとかできるんですよ。まさに土壁です。そのほうが補修しやすくて、お茶室なんかでも年数が経つと味が出てきますよね。そういうことになったらいいなと思って、いまでこそプロにお願いしていますけど、はじめは自分で塗っていました。

北村さんが塗った宿の壁。材料の小石やスサの風合いをあえて残している

北村さんが塗った宿の壁。材料の小石やスサの風合いをあえて残している

――町家を再生させるためのファンドを利用したとお聞きしました。

申し込みをしたら、たまたまいいですよって言っていただいて助かりました。でも予算の限られたファンドなんで、町家のほんと外側、例えばこの町家だったら樋とか格子とか外壁を塗るとか、ほんとに外に面した部分しか出ないんですね。しかもそこにかかるお金の半分なんです。なので実際にいただける金額は少なくて、わたしもお金はあまりなかったので、できるところは自分でやらないと直せなかったですね。

――短大では美術を勉強されたそうですが、町家の改装に活かせたことはありますか?

わたしが学んでいたのは美術史だったので、手でものをつくっていたわけではないんですが、副手として研究室に入らせてもらった5年間は得るものがたくさんありました。そのときに先生方から教わったことが今につながっていると思います。大学には現代美術、デザイン論、美学、ルネサンス美術とか、美術に関するいろんな分野の先生方がいらしたんです。わたしは副手として、先生方と展覧会に毎週行って、解説を聴いていました。そのお蔭でしつらえとか家具とか、そういうものについての審美眼を養うことができましたし、古い町家の価値にも気づくことができました。自分がこれから何を大切にして生きていけばいいのか、ここで教わった気がします。

机1

棚

机をはじめとした「あずきや」の家具は、北村さんが厳選したアンティーク

机をはじめとした「あずきや」の家具は、北村さんが厳選したアンティーク

――「あずきや」のお客さんは、はじめの予想通り外国人が多いのでしょうか? また、お客さんは町家の宿に何を求めて来るのでしょうか?

はじめのころ、外国人の割合は3分の1もないくらいでした。思ったより日本人が多いという印象でしたね。それから去年、外国人が急増して、今はもう9割が外国人です。2015年は訪日外国人が1900万人を超えて、過去最高を大幅に更新しています。このことが影響していると思います。
町家に泊まりに来るひとは、京都や町家のことをよく勉強されています。本物の町家を求めて来られると思いますが、畳にお座布団しかない100年くらい前のところで、3日も4日も滞在してくださいって言われたら、すごいしんどがらはるやろうと思います。なので、お客さんが快適に過ごせるように、できることをやっています。

――もともと客室にはクーラーを取り付けていなかったと伺いました。

そうですね。町家には、手水鉢と緑がある坪庭があるんです。ほんの小さなものですが、そこに風がぎゅーっと入ってきて、町家のなかをぬけるんですね。町家は細長くてそういう構造になってるんです。水を吸った庭の緑に空気が触れて、ひんやりした風が吹きぬける気持ちよさは、クーラーにはありません。それに町家の端の土間は、通り庭っていうんですけど、夏でも部屋の端にずーっと腰かけていたいくらい涼しくて気持ちいいんですよ。その気持ちよさを感じて欲しいっていうのはあります。
でも、気温が30度を越えて湿度も70%以上になる京都の夜に、夏でもカラッとしているヨーロッパやアメリカから来たひとは、もう息できないくらい寝苦しいって思わはるようなんです。やっぱりお金を払って泊まっていただいて、それはちょっとね。どこから来たひとでも快適に過ごしてもらうために取り付けたんです。でも、あえてエアコンをつけずに「網戸でも涼しかったよ」って言ってくれはったら、「よし!」って思うんですよ。

坪庭1

吹き抜け

町家に涼風をもたらす坪庭(上)。涼しい通り庭は吹き抜けで、天井には窓がある(中)。クーラーが取り付けられた客室(下)

町家に涼風をもたらす坪庭(上)。涼しい通り庭は吹き抜けで、天井には窓がある(中)。クーラーが取り付けられた客室(下)

――「あずきや」を13年やってこられて、別の宿も経営しようと思ったことはないんですか?

町家を改装した宿やレンタルハウスが今、すごく増えていて何百軒もあるんです。もしわたしが町家を購入して宿屋をやっていたとしたら、今の流れに乗じてもっとたくさん増やそうと思っていたんじゃないかな。だけどわたしの場合は「親から受け継いだものを壊さないためにどうするか」というところから始まっているので、規模を大きくするよりここを維持することが大事でした。壁をへだててくっついている2軒の町家を宿屋として経営していますが、これ以上数を増やそうとは思っていません。
それに経営する宿を増やすということは、お掃除やチェックインとかのフロント業務を誰かに頼むことになりますよね。「あずきや」は、アルバイトでときどき手伝いに来てくれるひとはいますが、ほとんどわたしひとりでやっています。それもまぁいいかと思って来てくれはるひとがいれば嬉しいですね。

――外国人のお客さんと接していて、文化や習慣の違いを感じることはありますか?

日本人て、世界の中でもきれい好きで几帳面やとみんな思ってるでしょ。でもきれい好きで几帳面なひとは国籍に関係なくいるんです。例えばお布団でも、日本人はたたまないひとが多いですけど、敷布団と掛け布団をロール式にたたんで毎日きっちり並べたフランス人とかいますし、時間にルーズだと言われているイタリア人でもオンタイムに朝食に来るひともいます。日本人以上に靴をぴちっと揃えていることもありますよ。
“爆買い”とか言われてますけど、上海や台湾からのお客さんも買わないひとは買わないし、欧米からのお客さんでも買うひとはめちゃくちゃ買うし。だから国というよりは、個人の違いのほうが大きいと思うんですよ。傾向はありますけど、それは国籍とは関係ないです。最近はそう思うようになりました。

アメリカからの宿泊客。「あずきや」に4泊して京都を満喫

アメリカからの宿泊客。「あずきや」に4泊して京都を満喫

――朝ごはんは提供しているそうですが、どんな要望がありますか?

そうですね。朝ごはんだけは出してます。基本的にはお任せしてくださっている方が多いですけど、もう一回来はったときに「またあれが食べたい」ということはありますね。ヴェジタリアンのごはんもお出ししています。特に卵も牛乳もダメな“ヴィーガン”のメニューは大変ですよ。豆をふやかすところからはじめて、準備に一週間かかります。
ヴィーガンやヴェジタリアンって、日本には野菜だけの食事がたくさんあると思って来はるひとが多いんです。でも、和食ってお魚のお出汁が使われてますよね。和食の料理人さんからしたらお出汁は大事なところだから、それを変えてと言われても簡単にはできない。だからヴィ―ガンやヴェジタリアンって入れるお店が思いのほかすごく少ないんですよ。朝ごはんぐらいはちゃんとゆっくり食べて欲しいって思うので、うちではご用意させてもらっています。

北村さんがつくる日替わりの朝食。知り合いの農家から仕入れた野菜をふんだんに使用。健康的で美味しく、細かな要望にもこたえられると評判

北村さんがつくる日替わりの朝食。知り合いの農家から仕入れた野菜をふんだんに使用。健康的で美味しく、細かな要望にもこたえられると評判

――外国人観光客にとって、他にも日本で問題になることはありますか?

うちに来てくれはる外国からのお客さんは、神社仏閣に行きたいというより、「そこまでに至るまでの道を今日は散歩すんねん」というひとが多いんですね。目的地をきいても「このルートを行くんや」って、絶対にポイントでは言わない。それはどこの国のひとでも共通していますね。
外国でわたしらが歩くときってそうじゃないですか。例えば、外国に行ったら、美術館に入らなくても一本の橋が素敵やったりとか、石畳の町並みが素敵やからそこを歩くだけで喜ぶでしょ。だから京都にもそれを期待して来られてるんですよ。でも、実際に来たら、あれっ! ってならはるひとがすごく多い。
京都ってほんとに写真ではいいところが出るから、清水寺とか石畳とか、祇園の花見小路のような町並みがずーっとあって、外国人のお客さんは、そういうのがぐっと詰まった場所が京都だと思ったはるんです。でも実際に来てみると、歴史的建造物が少しずつ点在しているだけですから、ものすごい衝撃を受けるみたいです。もちろん楽しんでくれはるけど、わたしらが外国に行って感じる「期待通りやった」っていう満足感は少ないようですね。

――どうすれば、もっと京都が魅力的な町になると思いますか?

京都の古い町並みをつくっているのは町家ですよね。今、町家は自由に壊すことができるので、残っているものを保存しないといけません。まず行政のバックアップとして効果的なのは、お金をあげるのではなくて、町家の維持にお金がかからないようにすることです。例えば、町家を受け継ぐという条件と引き換えに、相続税を軽減するとか。そうやって個人の資産にまで行政がコミットしていく方法しか、もう町家を残すことはできないと思います。
それに、守るだけじゃなくて新しく建てられるようにもしないといけません。でも町家は、今の建築基準法や防火法に適合しないので新しく建てることができないんです。京都だけの条例とか、法律を直していく方向にちょっとは向かっているようなんですが、市民が「町家建てたいんですけど」って言っていかないとダメなのかなと思います。京都をもっと町家で埋めていくことができれば、外国人にとっても日本人にとっても素敵な場所になりますよね。

――これからの目標を教えてください。

さっきも言ったことと共通しますけど、規模を拡大していくのではなくて、この「あずきや」を維持することです。でも時間が経っても全く同じというわけではありません。例えば昔からやってるお饅頭屋さんで「昔からの味や」って言われてるけど、実はお砂糖の量が減ってるという話がありますよね。時代に合わせて微妙な変化はあるかもしれないけど、相手の方にとっては変わらない。そういうちょっとずつの変化は取り入れていこうと思います。そのときどきに合わせて、お客さんのために手をぬかないようにしたいです。

インタビュー・文 大迫知信
2016.2.24対面にて取材

北村チエコ(きたむら・ちえこ)

プロフィール

1971年生まれ。京都の町家で育ち、京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)で芸術史を学ぶ。1996年に卒業し、同大学で副手として働きながら、美術全般に関する知識を深める。その後、母親から受け継いだ町家を宿屋にすることを決意。町家に詳しい大工の協力のもと自ら町家の改修を手掛け、2003年に「あずきや」をオープン。母屋と隣り合った別館の「セム」は一軒をまるごとレンタルできる。きめ細かなサービスと本物の町家の風情を味わえると、外国人観光客を中心に人気が広まり、リピーターも多い。

大迫知信(おおさこ・とものぶ)
工業系の大学を卒業し、某電力会社の社員として発電所に勤務。その後、文章を書く仕事をしようと会社を辞め、京都造形芸術大学文芸表現学科に入学する。現在は関西でライターとして活動中。