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アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#82

“客観的”に歴史を残し、先の未来へ伝える
― 長嶺 睦

(2019.09.08公開)

2018年9月、舞鶴で開催された「IOCM京都大会プレ大会舞鶴ミーティング」で地方博物館と地域の連携について講演のようす

2018年9月、舞鶴で開催された「IOCM京都大会プレ大会舞鶴ミーティング」で地方博物館と地域の連携について講演のようす

京都府の北部、舞鶴市にはユネスコ世界記憶遺産登録資料を収蔵する博物館がある。第二次世界大戦後、旧ソビエトのシベリアに抑留された日本兵などが、舞鶴へ帰還を果たすまでの歴史を伝える、舞鶴引揚記念館だ。学芸員として勤務する長嶺さんは、これまで学んだ知識を生かし、戦争が生んだ歴史を後世に伝える取り組みを続けている。

———京都造形芸術大学に通われていた時から、「戦跡考古学」という分野の研究をされてきたそうですね。ここに着目するに至った経緯を教えていただけますか?

大学に入学した当初は、中南米の考古学がしたかったんです。インカとかアステカとか。でも、3回生の時に卒論の演習があって、そのことを先生に言ったら「そんなもの誰でもやっているよ」って言われて。どうしようかなと思っていたら、たまたま非常勤で来ていた先生に「出身沖縄なんやろ? だったら戦跡考古学って知ってる?」って言われたんです。聞いたら、戦争の跡を考古学的な手法を用いて調査、研究する学問だったんです。しかも當眞嗣一さんという沖縄のひとが提唱した考古学から派生した学問。當眞さんは学者としても有名だったし、同じ沖縄県出身として僕ももちろんその名前は知っていました。「君がやるべきことなんじゃないの?」って先生に言われて、僕のなかでストンときたんです。

———今のお話にもあった通りご出身は沖縄県で、卒業論文では地上戦中に人々が避難していた洞窟の「ガマ」をテーマに選ばれていますね。

沖縄戦の跡が自分の身近にたくさんあったので、自然とそこに進んでいきました。「ガマ」は、沖縄戦を象徴するような史跡なんです。民間人も陸軍もガマのなかに避難したり、隠れたりしていました。歴史を残す上で、空間を残すことはすごく大事なんです。例えば京都だと歴史のある古いお寺や神社があって、それらを見ることで歴史を肌で感じることができるんですよね。
戦争の場合、例えば原爆ドームを見るとか、博物館で資料を見るということで歴史を感じることができるのですが、戦争そのものを感じるって結構難しいんです。
ガマは砲弾や当時の衣類が残っていたり、空間そのものが戦争の記憶を残していて貴重だと思いました。研究を始めた頃は戦争に関わる記念碑など、ガマ以外にもいろいろ調べていたんですが、そのなかでガマが開発によって壊されていることを知ったんです。もともと沖縄ではガマが神聖な場所でもあったのに、今ではないがしろに扱われていると感じました。これはもっと調査を続けて、保存して活用する方向に持っていかないといけないと思いました。ガマを調べることによって、戦争が起こった空間そのものを残したいと思ったんです。

———調査はどのように行ったのですか?

まずは空間を調査して、見取り図を描きます。それから、ひとがいた形跡を探さないといけないので、図面を描いたあとに生活用品など見つけたものをいろいろ描き込んでいくんですよ。実際に壺があったり、避難していたひとが置いていった着物があったり。とっても生々しいですよ。ガマのどのあたりに生活用品が集中して置いてあるのかなどを図面に落としこんでいきました。そうすることで沖縄戦体験者の証言にどこまで信憑性があるのか見えてくるんです。体験者の証言のなかに「ガマのなかに避難している時、入口のほうに追いやられていた」というものがあるんですが、戦跡考古学からこの証言の検証をしてみたんです。ガマの入り口に生活用品が集中していて、民間人がガマの入り口にいたことは推測できたんですが、これが証言の信憑性を高めるかというところにまで至りませんでした。戦後に行われた遺骨収集で生活用品が移動された可能性もあったためです。もちろん、日本軍によってガマの入り口に追いやられたことも否定はできないです。
そのほかにも、多くある証言の日本軍と民間人が同居した跡は、私がおこなった戦跡考古学の手法をとった調査では見つかりませんでした。おそらく、戦後長い時間が経過してさまざまな理由で痕跡がかく乱されたことが大きな原因ではないかと思われます。
沖縄のひとたちの体験談により高い信憑性を持たせるためにも客観的に検証していくことがこれから大切になっていきます。そのためにも、今後はしっかりとした調査が必要になってきます。

———論文を書き終えたあとも、調査を続けてこられたのでしょうか?

現地に行かないといけないので、就職してからはなかなか。歴史学は文献をあたっていくことが大事なんですけど、沖縄のガマの調査の場合は文献がとても少ないですし、戦争遺跡としてのガマの研究をしてきた研究者もこれまでにいないんです。どうしても、研究を進めていく上で、どこに進んでいけばいいのか、ぶち当たってしまうんですよね。僕は保存して活用していく方向を考えたんですけど、ガマのほとんどが自然の洞窟なので難しさがあります。
卒業後は、大阪と福井で埋蔵文化財の発掘調査をする、埋蔵文化財センターに勤めました。発掘現場で作業員さんに指示を出したり、遺跡の平面図を作成したり、地層断面図を作成したり、遺跡全体の航空写真をとって検証をしていました。最後はこんな風な建物が出てきたり、こんな遺物が出てきたりしました、という報告書を書くといった仕事です。

———5年ほどそのお仕事をされたとのことですが、なかでも印象的だった事例はありますか?

あります。日本の発掘調査の7割か8割は役所がおこなう行政調査なんですが、その行政調査では、近代以降のものは発掘調査をしないという、暗黙のルールのようなものがあるんです。近代以降って文書も写真もあるし、場合によっては映像もあるので、文字に残したものがない時代を中心に調査するべきだ、と考える研究者もいます。
僕が大阪の文化財センターに勤めた年に、センターの理事長が近代以降も調べようという方針に転換したんです。歴史は江戸時代で終わっているんじゃなくずっと続いていて、そのなかには明治も大正も昭和もある、と。それで偶然にも、枚方にあった「禁野火薬庫」という巨大な陸軍の火薬庫の跡を調査することになって、調査チームに配属されました。とてもワクワクしたのを今でも覚えています。
実際に調査をしてわかったのが、その火薬庫は昭和に入ってから爆発事故を起こしているんです。発掘したら爆発の痕跡がたくさん出てきて、爆発の時にできた直径が10メートル以上あるクレーターも出てきました。火薬庫がひとつでも爆発したら次々爆発してしまうので、すごい被害だったことが調査でわかりました。当時の陸軍の内部資料には火薬庫の近くにあった集落の家が吹っ飛んだという記述もありました。犠牲者もたくさん出しているのに、当時の新聞では小さくしか伝えていない。そこに当時の社会状況や陸軍の思惑が見えるんです。今みたいにツイッターもないし、メディアが発達していなかった時代に、報道に規制を敷いて情報をコントロールして陸軍への信頼を失わないようにしていたんです。
過去の出来事を後世の僕らが知ることで同じ過ちをくりかえさず、いつの時代でも似たようなこと、同じようなことが起こりうることを、考古学の手法を用いて改めてわかりました。

———この埋蔵文化財センターでの経験は、現在の舞鶴引揚記念館での学芸員の仕事に通ずるものがありますね。

舞鶴引揚記念館は、第二次世界大戦が終わったあとに、60万人もの日本人が旧ソ連のシベリアに連れていかれて大変な思いをしたことを忘れられてはいけない、という思いでつくられました。それに通ずるものがありますよね。

シベリアの地で使用されたコートや、当時のようすが書かれた「白樺日誌」など、抑留や引揚についてうかがい知ることのできる貴重な資料。その数は常設展のみでも1000点以上になる

シベリアの地で使用されたコートや、当時のようすが書かれた「白樺日誌」など、抑留や引揚についてうかがい知ることのできる貴重な資料。その数は常設展のみでも1000点以上になる

引揚船の模型

引揚船の模型

———舞鶴引揚記念館に保管されている資料570点が、2015年にユネスコ世界記憶遺産に登録されました。登録までに、長嶺さんが尽力されたと伺ったのですが、具体的にどんなことをされたのでしょうか?

収蔵資料のデジタル画像がなかったので、それらをデジタル化していく作業などですね。学問的な再検証はまだまだで、全体像も捉えられてないんです。資料はたくさんあるんですけど、学問として検証するほどの数はなくて。調査はまだ続いているんですが、僕1人ではできないので、大学の先生にもお願いしています。
舞鶴引揚記念館は、舞鶴市役所が運営しているんですよ。伝えていかないといけない歴史があるまちなのですが、過疎が進んでいる地域でもあります。人口も税収も減っていくなかで、研究もしながら運営をしていくのは財政面で結構大変なことです。一方でこの史実を後世に継いでいくために、財政面で賛同してくださる企業さんに声をかけてみたりもしています。決して多くはありませんが、ユネスコに登録されたことが支援につながっています。

———ユネスコ世界記憶遺産に登録された時、どんなお気持ちでしたか?

真っ先に思ったことは、「責任」っていう重い冠が自分の頭の上にさーって降りたことですね。これをきっかけにシベリア抑留について知っていただけるんですけど、世界が大切だって認めたものには責任も伴うわけですよね。正しく伝えていかないといけないのもあるし、伝えていく努力をこれまで以上にやらないといけない。決して重荷ではないんですけど、素直に嬉しいと思うより、そんな気持ちが強かったですね。

———長嶺さんの仕事について伺っていると、ただ展示として資料や空間を見せる、それに伴う調査をする、ということだけではなく、何より伝えることを大事にされていると感じました。

僕らは当時のことを経験していないので、体験者のように話せないですよね。どう伝えていくかを考えた時、歴史学という客観的な見方を持っていないといけない。それはシベリア抑留について伝える上でも、沖縄戦を伝える上でもすごく大事になってくると思います。
例えば沖縄戦も、ただ人々が悲惨な思いをしたことだけが伝わっていくと、若い世代が目を向けたがらなくなってしまいます。僕はもっと若いひとたちに、ひめゆり平和祈念資料館などの平和資料館に行ってもらえればと考えています。ですが、多くの若い世代のひとは、そういった資料館へ足を運ぶこと避けているように思います。僕の友達の言葉なんですが、「あなたはいいかもしれないけど、私は平和資料館とかに行くとめっちゃブルーになる」。この一言は一生忘れられません。せっかく沖縄に行って綺麗な海で遊んで楽しい思いをしたのに、資料館に行くと悲惨さが自分の頭と心に残ってしまって、楽しかった思い出が抹殺されてしまう、みたいなことを言われたことがあるんです。伝え方を検証していく必要があると感じました。これから体験者の方が減っていくなかで僕たちがどうやって伝えていくかも大事だし、戦時体験を聞いた次の世代が、偏った情報や誤った情報を伝えていってしまうことも危惧しています。

舞鶴引揚記念館にて、勤務中のようす

舞鶴引揚記念館にて、勤務中のようす

———後世に史実を伝えるために大切なことはなんだと思われますか?

繰り返しになりますが、この歴史をどう客観的に伝えていくのか。これは僕の理念なんだと思います。どうすれば友達に言われた「あんなところに行ったらブルーになる」っていう意識を変えられるか。学芸員として働く前から、それが永遠の課題であり、テーマであります。

———過去の戦争だけでなく、例えば3.11など、近年起こった災害や事件を見直すためにも、客観的に捉えていくことが重要だと感じました。

そうです。25,000人もののひとが震災によって亡くなってしまったことは大変なことなんだけど、客観的に捉えてみると、実は人災だったんじゃないか、など新しい見方が出てくるかもしれない。だからこそ歴史学が生きてくるんじゃないかなと思っています。

———今後の展望として、何か考えていることはありますか?

実は、舞鶴引揚記念館には中学生のボランティアガイドがいます。てっきり学校の先生に強く勧められたのかと思ったら、自主的にボランティアをしたいって集まってきたんです。地元にある博物館に、ユネスコに登録された資料があるってことは、彼女たちにとって驚きだったそうなんです。
沖縄や広島、長崎にも中学生語りべがいて、戦争の記憶を継承していく勉強をしているのですが、そういうのを増やしていけたらいいなと思っています。他の地域では行政が募集をかけて、学校の先生に推薦されたひとが参加しているそうなんですが、舞鶴の子たちのように自主的な中学生が増えてくれたらいいですよね。かつ、沖縄や広島・長崎だけでなく、シベリア抑留を伝える子や、名古屋や東京、大阪の大空襲を伝える子などが全国から集まって、お互いのことを学び合えるような、戦争を伝える子どもたちサミットができたらいいなと。
なんでそんなことに気づいたのかと言うと、東京から来た修学旅行生のガイドを彼女たちにやってもらったことがあるんです。来る前は「東京の中学生ってどんな感じなんだろう? やっぱり洗練されているのかな」って話していたのに、実際に話してみると「普通だった」と言っていて。彼女たちは交流を通じて、違う地域に住んでいても一緒なんだってことを知ったんですよね。世界規模で見ても自分たちは同じなんだって感じられる場をつくれたら、平和な世の中が構築できるんじゃないかと、僕は思うんです。

インタビュー・文 浪花朱音
2019.8.5 オンライン通話にてインタビュー

長嶺portrait2

長嶺 睦(ながみね・むつみ)

沖縄県糸満市出身
京都造形芸術大学芸術学科文化財科学コース(現:歴史遺産学科)卒業
同大学院芸術研究科終了
2012年より舞鶴引揚記念館初の学芸員として勤務
2015年に収蔵資料の一部をユネスコ世界記憶遺産登録する


浪花朱音(なにわ・あかね)

1992年鳥取県生まれ。京都造形芸術大学を卒業後、京都の編集プロダクションにて、書籍の編集・執筆に携わる。退職後はフリーランスとして仕事をする傍ら、京都岡崎 蔦屋書店にてブックコンシェルジュも担当。現在はポーランドに住居を移し、ライティングを中心に活動中。