(2017.05.05公開)
荒河純さんは、現在神奈川県の南足柄市に住み、そこからほど近い距離にある小田原市の歴史について執筆している。江戸以前は北条氏により関東の中心として栄え、近代以降は谷崎潤一郎や、北原白秋などの文豪が滞在し、そこから生まれた作品もあるなど、多くの歴史や文化を持つまちだ。荒河さんの研究内容もまた幅広く、日々歴史を更新するかのように、さまざまな物語を発掘している。歴史を深く読み、書いて伝えていくことを続ける荒河さんの、その活動についてうかがった。
———現在はどのような活動をされているのでしょうか。
今年67歳になるんですが、現在も企業で技術研究・開発の仕事をフルタイムで続けています。フリーランスの研究職ですね。そこで働く傍ら、「小田原史談会」という歴史団体の理事を務めています。この「小田原史談会」では、歴史探訪などのイベントに参加したり、郷土史をまとめた『小田原史談』という年4回発行する冊子の編集・執筆をしています。この冊子は、老舗などにインタビューしたり、小田原の歴史研究者の原稿を載せたりしています。わたしも、江戸時代に小田原にあったと言われる劇場を取り上げた「小田原桐座について」という連載を2年かけて書きました。編集長も務めているので、月に1〜2回の理事会と編集会議の他に、自宅で原稿をやり取りしながらつくっています。
———小田原というまちは、どんな歴史のある土地なのですか?
なかなか一言では言えないですが、掘り起こすと面白いことがたくさんあります。まず戦国時代には北条氏五代によって栄え、関東の中心でした。その後豊臣秀吉によって滅ぼされ、徳川家康が江戸に首都をつくることになるのですが、実は小田原が江戸のモデルになったと考えられます。今話題の築地市場周辺には昭和40年頃まで小田原町と呼ばれているエリアがありました。おそらく小田原から江戸に行った優秀な職人たちが住んでいた場所だと思います。板橋や荻窪という地名も、実は小田原発祥の地名なんです。今は名古屋で有名な「ういろう」も、もともと小田原の老舗の薬屋が苦い薬を飲みやすくするためにつくったものがはじまり。いろんなことから、このまちは今の日本を代表する文化の発祥地であるとも言えます。
———さまざまな歴史や文化が薫る小田原ですが、中でも「小田原桐座」の研究に注力されていたとうかがいました。
京都造形芸術大学の通信教育部に通うことになり、このテーマで卒業論文を書きました。本業に沿った、例えば「化粧品(スキンケア)の歴史」や「カラー写真のアーカイブ」など、理系寄りのテーマも考えましたが、なんだか面白くない。せっかくだから仕事とは無縁で、かつ小田原に密着した内容がいいなと思いました。その時、10年以上前に「小田原の歴史と文化を考える会」に参加していたことを思い出したのです。そこで主催者の方を訪ね、この芝居小屋のことを聞きました。
「小田原桐座」は、小田原にあった、その実体がよくわからないと言われていた芝居小屋です。実際に研究をはじめたところ、手掛かりはほとんど由緒書のみしかありませんでした。嘘が書いてあるかもしれない由緒書を丹念に読み込み、裏を取る作業をしました。自分なりに年表をつくり、系図を書いて相互に矛盾がないか検証して、確からしい事実をすくい上げていくのです。そうしたなかで、由緒書に記載されていた「小田原桐座が横浜に進出を目論んだが、資金の問題で断念した」という一文の事実を確かめようと思い、国立公文書館に行き、横浜開港関係の外交文書にあたりました。すると小田原桐座に横浜進出の許可を与えるという由緒書が見つかったんです。偶然にも、これと同じ文書を、すでに東大史料編纂室によって翻刻された資料のなかに見つけ、それを元に論文を書ききることができましたが、研究としてはこれが真のはじまりでした。
———卒業後も「小田原桐座」について、研究を続けられたと。
卒業後、小田原桐座が横浜進出の許可を得ていたのなら、実際にそう簡単には諦めないだろうと思い、進出した痕跡は無いかと探しました。同時期に横浜にあった別の芝居小屋について調べている方がいて、まずはその方が使っている資料を、自分も現物で見てみようと思いました。その資料は三井文庫が持っている、江戸時代の横浜のまちをスケッチした手書きの地図でした。その地図の端に、「小田原」という文字を見つけて。それは横浜に進出した小田原桐座のことだと分かったのです。その資料を使っていた方は別の劇場について研究しているので、同じ資料でもその存在に気がつかなかったようです。「小田原桐座」は確かに横浜に進出し、芝居小屋を建て、興行を行ったという事実を発見しました。この結果は、横浜の演劇史を塗り替えるほどの新事実であると考え、学会でも発表しました。
本業の技術研究の世界では、資料や論文にあたって実験で検証していくのが研究のスタイルです。今回の歴史のように、資料や文書だけで研究を進めていくのは、自分にとって勝手が違うのですね。そのため最初はどうしたらいいのかわからなかった。文書と横浜の地図など複数の資料がうまく結びついてきて、はじめて面白いと思いましたね。
———現在、小田原の歴史に関することで、取り組んでいらっしゃることは何ですか?
「小田原史談会」で、近代以降の歴史に注目しています。もう明治、大正時代の頃を知っている現役のひとはいなくなっているでしょう。そろそろ歴史として研究する必要があるかなと思っています。なかでもわたしは小田原に工場もある「富士フイルム」について調べています。会社がつくった社史はあるんですが、そこに書かれていないドラマを書きたいなと思っていて。ひとつ目は、創業者のことです。大正8年に大阪で「大日本セルロイド」という、セルロイド商品を生産する会社をつくったひとです。その後、当時輸入品が多かった写真フィルムを国産化したいと「富士フイルム」を立ち上げたそうです。このひとのことを調べれば調べるほど非常に感銘を受けて、これは書きたいなと。次に第二次世界大戦の間、企業はどんな活動をしていたのか、ということ。この時期のことは社史にも書いてなく、知られていないエピソードがいろいろとあるんです。今年の前半に創業者のことを、後半には戦時中のことを書き切ろうと思っています。現在は本業上、富士フイルムの資料にアクセスすることができるので、そのチャンスを生かせるかと。
———荒河さんご自身の、最終的な目標は何でしょうか?
短編はいくつか書いていますが、長編の歴史小説を書き上げたいと思っています。これは京都造形芸大に入った理由にもつながるのですが、小説を書くには元の資料にあたらないとユニークなものにできないと思っていて。歴史的な素養の不足や、特に古文書が読めないのを克服したくて、文芸表現ではなく、歴史遺産コースに入学したんです。長い間書き続けているものもあり、ひとつは北条氏五代をモデルにしたもの。北条氏が関東を支配したのはほぼ100年間なのですが、北条早雲の四男・幻庵というひとは96歳まで生きたので、その歴史を全部知っているのですね。まずは幻庵を主人公にした作品を。もうひとつは幕末の頃、横浜にいた下岡蓮杖という写真家についてです。交友関係も広く、日本ではじめて牛乳を売ったとか、さまざまなエピソードを持つ、だいぶ変なひとなんですが(笑)、そのひとを中心にした幕末の様子を描けたらと思っています。わたし自身が写真に関わる仕事をやっていたものですから、その面でもひとと違うものが書けるかなと。最近はあまりジャンルは問わないようになっていて、会社で携わってきた理系寄りのテーマも、どこかでリンクする可能性があるなと考えています。小説になりそうな、面白いネタは日々増えていますね。
歴史短編小説(ペンネーム:南川純平)
http://sohzine.jp/writer/minamikawa/index.html
小田原史談会
http://odawara-shidan.hustle.ne.jp/
取材・文 浪花朱音
2017.03.29 オンライン通話にてインタビュー
荒河 純(あらかわ・じゅん)
1950年 鳥取県境港市生まれ
1970年 米子工業高等専門学校工業化学科卒
1970年 富士写真フイルム(現・富士フイルム)入社
1978−79年 米国留学
2010年 富士フイルム定年退職、以降嘱託で勤務
2015年よりアドバイザー、専門分野はコロイド界面化学
現在は主に化粧品の基礎技術開発を行う
2010年 京都造形芸術大学通信教育部歴史遺産コース入学
2013年 同・卒業(卒論「小田原桐座について」)
2016年 小田原史談会理事
足柄史談会、関本宿を語る会、禹王研究会、芸能史研究会の各会員
浪花朱音(なにわ・あかね)
1992年鳥取県生まれ。京都造形芸術大学を卒業後、京都の編集プロダクションにて、書籍の編集・執筆に携わる。退職後はフリーランスとして仕事をする傍ら、京都岡崎 蔦屋書店にてブックコンシェルジュも担当。現在はポーランドに住居を移し、ライティングを中心に活動中。