アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#11

“芸術”と“療法”のはざまで踊る
― 美馬千秋/竹内実花

(2013.10.05公開)

30歳手前まで一般企業で働いていたOLがある日退職し、1995年、まっさらな状態から「舞踏」の世界に飛び込んだ。その後、自分の生まれ育ったまち札幌を拠点に、森田一踏氏と舞踏グループ「偶成天」を立ち上げ踊り続ける彼女は、現在「美馬千秋」と「竹内実花」というふたつの名前で舞踏家とダンスセラピストの活動をしている。“芸術”と“療法”のはざまを行き来しながら、どんな気持ちで踊りの世界を作り上げるのだろうか。

——幼少期はどのように遊んでいたのですか。

生まれは札幌なのですが、母方の祖父母が住んでいる道南の松前という小さな港町によく遊びに行っていました。元気に遊ぶというよりは、月見草が夜にひらく様子や虫が歩く姿をじっと見つめているとか、風に吹かれてみるとか……あまり今と変わらないですね(笑)。自然の時間の流れに身をまかす感じ。雲の流れ方だって季節ごとに違うし、その日によって肌に感じる空気が違う。その違いを誰にも邪魔されず、ただ味わって、いつの間にか溶け込んでしまう……そんな世界の延長線上に、私にとっての「舞踏」があるんです。

——舞踏との出会いを教えてください。

実は30歳になる手前まで、普通に社会に出てOLをしていたんです。近くに踊りをしている人もいなかったし、幼少期にダンスを習ったということもありませんでした。OL時代に、隣の事務所の人に誘われてモダンダンスをやってみたことがあるのですが、基礎もないし、振付も覚えられない。運動不足解消のために始めたのに、膝も痛いし、こんなものは身体に良くないと3ヶ月で辞めちゃったくらいです(笑)。
私が働いていた当時、日本はちょうどバブルが崩壊した頃で、自分がこうして会社で勤めている姿に疑問を感じだしていたんですね。個人的に20代を終えるということもあり「とりあえず今まで諦めていたものをもう一度やってみようキャンペーン」を自分の中で始めていました。そんなある日、舞踏ワークショップの葉書がぽんと家に届いたんです。キャンペーン中だったこともあって、軽い気持ちで参加したのが最初の出会いですね。いろいろなことに手を付けたうちの、舞踏だけが現在まで残ったという(笑)。
ただ、よく昔のことを辿ってみると、小学生のときに、地下街で白塗りの人たちを見た記憶があるんです。たぶん北方舞踏派(※舞踏の系譜のひとつ)の方たちだったのかな。白塗りで、妖怪みたいで、生きているのか死んでいるのかわからないような……。もっと見てみたい、気になる!と思ったのですが、親から「見てはいけません!」と言われたのかどうだったか、その瞬間は素通りしてしまったんですね。実家は商売をしていて、アートとは何の関わりのない家庭でしたから。

——地下街での光景が、ちゃんとした思い出ではなくでも、強烈に残っていたということですね。

そうですね。記憶の場所でいうと、よく遊びに行っていた祖父母の住む漁村の古い家の原風景とすごく近いところにあります。自分の中では封印していた記憶だったけれども、意外と嫌いじゃなかった(笑)。それから舞踏家・森田一踏さんの「舞踏やってみたら?」という一言がきっかけで、1995年に路上パフォーマンスという形で踊り始めると、もう少し続けてみたいと思うようになりました。心理学の教授もされている森田さんとパートナーを組み、「偶成天」として一緒に活動を始めることになったんです。

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竹内実花舞踏15周年ソロ公演『夢二夜』より photo by Katsumi Takahashi

——森田さんとの舞踏活動で、当時から長く続けるビジョンはあったのですか?

実はなかったです。ただ、始めたときに、私の中にいる舞踏の神様と約束したのは「嘘をつかないで一生懸命踊る」ということでした。つまり、自分が名を知られてゆくための手段に舞踏を使わない。もとを辿れば、本当に自分ひとりのための大事なものですから。だから「舞台に立つ」と決めてからは、高熱を出した日だって、ぜいぜい言いながら家から白塗りして出かけたこともあるんですよ(笑)。

——ご自身のWEBサイトに、大野一雄さんと撮られた写真を掲載しておられますね。

釧路に「ジスイズ」というジャズ喫茶があるのですが、大野さんはそのマスターと親交が深く、釧路で公演があったときに来られたんですね。この写真は、大野さんの楽屋付きとしてお手伝いに行ったときに撮っていただいたものです。
北海道で舞踏家、という方は実はほとんどいないんです。流派もしっかり存在しているわけではない。だからこそ舞踏に対して無知から始めた私も、こんなふうに純度の高い現場に早い時期から参加することができたんです。流派がなく大変なことも多いのですが、喩えるならば高山植物のような存在でいられた。間違ってそこに生えちゃって、そのままむくむくと育ったというか(笑)。
大野さんはやはり、手を一回振り上げるだけで”大野一雄”という世界を作り上げる人でした。世界を紡ぐというかな。私は彼のことを、レジェンドとは思っているけれども神格化をしていないんです。大野さんは函館出身の人なので、個人的なところで親和性が高かったのかもしれませんね。

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ジスイズ」でのひとコマ

——現在「美馬千秋」と「竹内実花」というふたつのお名前で活動されていますね。そこにどういう背景があるのか、教えてください。

「美馬千秋」のほうが私の本名です。珍しい、こっちのほうが芸名みたいですよね。舞踏の世界へ飛び込むにあたり、実家が商売の家である親には迷惑をかけられないという想いもあって、新しい名前を付けることにしたのがきっかけです。以前に参加したワークショップで強烈な感銘を受けた、『ことばが(ひら)かれるとき』という本を書かれている竹内敏晴さんから苗字をいただき、個人的に思い入れのある音「ミカ」に漢字を当てました。とても大事な「普通の名前」になろうと思って。何というか、自分がちゃんとするために必要なことだったんです(笑)。
今では「竹内実花」が8割、9割を占めています。ただ、ビザや学校の手続きの関係で、本名を使わなければいけないときもあって。場面、場面で使い分けるのは難しいことですが、私の中では車の両輪というか、やじろべえのような感覚でいますね。両方ともかけがえのない「私」です。心理学の言い方で説明すると、無意識の中にたくさんの層があって、その深いところにある、いろんな私を全部ちゃんと生きようと。最近になってようやく自分の本名も大事にできるようになりました。

——ふたつの名前の使い分けは、舞踏の「白塗り」に何か関連があるのではと想像していたのですが。

舞踏における白塗りには、いろいろな意見があります。私の場合は、舞踏の場に立つためのみそぎをしている感じ。普通、白塗りをしている姿は怖い印象を与えることが多いのですが、私は白塗りをしていないと逆に不自然だね、と言われることもあって(笑)。その昔、土方巽夫人・元藤燁子さんの楽屋付きだったときに「なぜ身体を白く塗るのか、知ってる?」と聞かれたことがあります。そのとき彼女は、土方さんとご自身が東京大空襲のときに目撃した、遺体の骨粉の風景を話してくれました。白塗りは、歌舞伎などとはまた違う、独特な舞台の映え方をするんですよね。その生きているのか死んでいるのかわからない境目を、アイロニーに満ちながら踊っていたのが土方巽です。
私は白塗りに関しては、こちらの身を明け渡してゆくための「整え」という気持ちでいます。知識も系譜も知らないまま始めたけれど、先人たちが舞踏というものを残してくれたおかげで私は生かされている。その点においては、感謝としか言いようがないです。

——もうひとつの活動の要である「芸術療法(ダンスムーブメントセラピー)」について教えてください。

ダンスムーブメントセラピーは向精神薬が開発されていなかった時代、アメリカの統合失調症の病棟にモダンダンサーが入ってゆき、踊ったのが最初です。現在私は精神科のクリニックで、うつ病などで休職されている方のデイケアをしています。通常「セラピー」というと、言葉でのカウンセリングが大半で、身体に触るのがタブー視されている風潮があるんです。もちろん疾病の基準にもよるし、むやみに触るということはしないのですが、ダンスムーブメントセラピーでは、手を触ったり、身体を動かしたりすることを抵抗なくできるところがあります(もちろん無理強いはしませんし、慎重にですが)。私は患者の方たちが元気になる/ならない、という以前に「自分の身体がここにある」ことを意識するのが大切だと考えているんです。また、このセラピーにおいて一般の方たちに伝えるのが難しいと感じているのは、心理から見るとアートの面白いところに手が届いていないし、アートの強烈さや暴力性は療法として用いるには危険なこともたくさんある、という部分です。”芸術”と”療法”のはざまで、考えていかなければいけない課題はまだまだあります。

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ロンドン・モーズレイ病院でのワークショップ

——今後の、目指すべきところというのは何でしょうか。

よく舞踏を習いに来る人たちに言っているのは「できないからと言って必死になってもできるようにはならない」ということです。語弊を恐れずに言えば「できるようになる」ことは「できないことを失う」ことだと思っています。できない自分を十分に味わい尽くしてできるようにならなければ、得るものも得られないよ、と。そう考えると「加齢」ということも、若さを失うぶん得るものが増えたような気がしています。そのときそのときでしか踊れない世界を大事にしてゆきたい。皺を伸ばしに行くとか、そういう面倒くさいことも私は嫌いなので(笑)。清潔感を保ちつつ、こざっぱりと歳を重ねてゆければいいな。もちろんお洒落したいときはするし、Tシャツ1枚でいたいときはそうする。皺もシミも増えるけれども、表情筋がきちんとあるのがいいんだと思っています。それに、舞踏家だからと言って「ザ・舞踏」という感じで生活するのもインチキくさいですもんね(笑)。今の時代の、しかもちょっと変わった舞踏家の姿かもしれません。
昨年、アンデルセンの『人魚姫』を読み語りの人に読んでもらいながら踊るという作品を作ったのですが、観に来てくれた少年たちが私を見て「人形? 人間?」って、ずっと繰り返し親御さんに聞いていたんです。それがうれしくて。私が小学生の頃に地下街で見たときのように、怖いけど美しいものって、一生心に焼き付くんですよね。特に、想定外の美しさとなると。アートという器の大きさで、ひとりの人間がいろんな面を持って生きることが許されているんだと、知ってもらえたら幸せです。

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公演『にんぎょひめ〜舞踏に言葉が響くとき』より photo by Katsumi Takahashi

インタビュー、文 : 山脇益美
2013年8月10日 電話にて取材

profile

美馬千秋/竹内実花(みま・ちあき/たけうち・みか)
1966年北海道札幌市生まれ。舞踏家/日本ダンスセラピー協会認定ダンスセラピストおよび協会理事。1995年、森田一踏とパートナーを組み、舞踏グループ「偶成天」として活動を開始。また、ダンスセラピストとして心理系大学にて芸術療法実習の教鞭を取り、高等看護学院で人間関係論を教える。精神科のクリニックでリラクセイション、臨床心理士へのスーパーバイズ、舞台芸術・舞台美術、コリオグラフィなどを担当。2013年京都造形芸術大学大学院(通信制)芸術環境専攻芸術環境研究領域修了。
竹内実花WEBサイト
http://www.ne.jp/asahi/butoh/itto/mika.htm

山脇益美(やまわき・ますみ)
1989年京都府南丹市生まれ。2012年京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース卒業。今までのおもな活動に京都芸術センター通信『明倫art』ダンスレビュー、京都国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」WEB特集ページ、NPO法人BEPPU PROJECT「混浴温泉世界2012」「国東半島アートプロジェクト2012」運営補助、詩集制作など。