(2024.03.10公開)
人形研究家・岡本万貴子さんは、江戸時代より続く人形師の家系である面庄家に嫁いだことで、人形の世界と出会った。幼児の体躯を誇張した風貌の「御所人形」に触れて感じた素朴な疑問を出発点に、今日に続く人形研究の長い道が始まる。博士論文「裸形と着装の人形研究−祈りと遊びの観点から−」(後に再編され書籍化)を見れば、参考文献と、実地取材の膨大さにまず驚くだろう。是非これから研究者を志す者なら必読の労作である。岡本さんの人形史研究は最終的に、人々が衣服を、そして身体をどのように捉えてきたのかを読み解く、壮大な文化史研究へと繋がっていく。もともと文章を読むのも書くのも苦手だったという岡本さんが研究者となるまでの道のりと、日本の人形の面白さ、奥深さについて伺った。
———岡本さんは、京人形の面庄家にて、これまで人形制作に携わられてきました。人形をつくることと、人形を研究することはまた違うと思います。京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)の通信教育部に入学されたきっかけはなんだったのでしょう。
実は研究者になろうとして入ったわけではないんですよ。大人になってからやっぱり勉強はしとけばいいよねと思って、2人の息子たちに勉強しましょうって頑張って言ったんですけれどもね、両方とも聞く耳を持たずで(笑)、ちょうどその頃に造形大学の通信のご案内がありましたから、息子たちにも「それならば私が行きます」と言ってね、通信の1期生として入ったんです。
元々嵯峨美術大学で染織をしていて、公募展などでも活動していたのですが、せっかく学ぶなら、一から自分が一番苦手なことをしてみようと思って、それが文章を読むことと書くことだったんです。それで芸術学部を選んだんですが、美学であったり美術史であったり難しい話が続くわけですよね。字を読んで理解する能力がその頃は本当になくて。でも授業を何遍も聞いていると、芸術学は芸術とは何かを考え続けるものなのかな、というのがだんだんわかってきて。作品を見たり、歴史を考えたりする中で、研究者の頭の中で一つの芸術活動が行われているんですよね。ある作品を媒体として、その作品と違う場所で、また違う世界観の芸術活動が行われる。それを聞いたり読んだりした人が、また違う芸術的発想を得る。芸術学とはそういう作業かな、と思うようになりました。そこに至るにはなかなか時間がかかったんですけども。
———博士論文「裸形と着装の人形研究ー祈りと遊びの観点からー」についてお聞きします。タイトルにあるように、裸形の人形を起点に、日本の人形史を紐解かれています。裸形であることになぜ着眼したのですか。
今では一般的に「御所人形」と呼ばれている、ちょうど1歳児ぐらいの、ぷりぷりっとした感じの3頭身の裸の人形がきっかけでした。私の論文では、この人形のことを、職人言葉でもある「狂い・白肉人形(くるい・しらじしにんぎょう)」という明治以前の呼び方で統一しています。「狂い」は頭身が狂ってるという意味ですね。立っているものは立狂い(たちぐるい)、座っているものは居狂(いぐるい)と呼び、本来の人形の印象を端的に表現している言葉です。私が面庄家に嫁いだときにそれを見て、主人に「なんでこうなの?」と聞いたんです。実際の赤ちゃんは大体4等身なんですけど、狂い・白肉人形は体躯が極端に誇張されている。それはなんでと聞いたんですね。そうしたら「昔から」と言われたんです。うちは主人で14代目ですからね、ずっとそれをつくってきているから当たり前なんです。そこが引っかかりの始まりだったように思いますね。この当たり前に対して、文献には何も答えが書いてない。どうして? と気になってしまいました。まず裸である意味はあるだろうと。ではそれはなんだろうと考えるんです。わらしべ長者のように、疑問からは必ず次の疑問が出てくるから、それを引っ張っていく。「裸」という言葉が出てくるのは、「裸じゃない状態」があるからではないか、と思うわけです。そうして研究をしていく中で、当時の人々にとって、着物を着せるということがどんなに大事なのかに気付きました。
———論文のタイトルにもある「着装」ですね。裸を考えるために、まずは衣を考えた。
「衣食住」と言いますよね。なんで食衣住ではなく、衣食住か。理由があるんですね。日本各地の生育儀礼を見ていくと、赤ちゃんは生まれて1週間はおくるみにくるんで、お七夜が済むと、袖のある着物に着せ替えるんですね。そこから人間としてカウントが始まる。さらに江戸時代の初期まで「着物に魂が宿る」という考え方がされていたんです。昔はユニクロはなかったからね、一つの着物を長く着ていたと思うんですよ。
伊勢神宮では現在も「神御衣祭(かんみそさい)」という、天照大御神に御衣(おんぞ)を奉る祭りがあるんですが、ここでは着物を神様に着せることで、神様を人格化しようとしているんです。日本の神様は元々荒ぶる神様で、怒ったら台風になる、雷は落ちる、といった感じですよね。神様にうやうやしくも着物をお供えして着せるというのは、形がない神様をなんとか人格化したかったのだと考えられます。
例えば「裸形着装像」という衣を纏った仏像では、衣が異界との媒体となることで、仏と人を強く繋ぐ装置になったわけです。そうして祈りの媒体としての衣を考えていくと、衣を着せられるための裸形の体躯もまた見えてくる。それを今日の裸形の体躯を有する人形の原型と見ていきました。
———神御衣祭にも足を運ばれていましたね。岡本さんの論文には実地取材による現地の空気が強く感じられますよね。
実地取材は文献に書かれていない生の声が聞こえてきます。さらにお寺から次のお寺を紹介してもらったりとか。人形と宗教がどう繋がっているのかは、実地の風景を見て、さらに見えてくることがありました。
人形の祖型として古来の祭祀具である人形代(ひとかたしろ)について調べたときは、ほとんど全国に取材に行ったんですけど、もう頭の中がぐちゃぐちゃになってきて、割り箸さえ人形代に見えてきてね(笑)。先生に相談をしたら、しばらくしたらそのぐちゃぐちゃの中から上澄みが浮いてくるから、それをそっと掬ったらいいと言われました。章立てに立体感がなく面白くないとも。この話はどこにたどり着くのか、と読み手に思わせながら、一つの結論に導くような章立てをしないといけないとも教えていただきました。結論ありきでは、それに必要な材料だけを揃えるから、今までわからなかったことは見えてこないと。
———今日の人形の前身は、神社仏閣といった祈りの場から、市井の中へ、そして室内へと居場所を移していく、その変遷を「人形代が人形へ移行していく過程」と述べられていますよね。
お祭りは「神遊び」というように、神様と遊ぶ行為なんです。神様に喜んでもらうために、いろんな音曲をしていた。そこからだんだんと踊りであったり、遊びというものが出てきて、日常へと分離していくんです。同時に、江戸時代になると神様の存在がだんだん希薄になっていく。どうして雷が落ちるのか、病気になるのか、そういったことが科学的に立証されだすと、人と神様の遊びから、人と人の遊びに変わっていく。そうした時代背景から、人形の発展の形が見えてくるんですよね。そして祭りや遊びの媒体としての人形の体躯に、必要に応じて立体的な手や足が出てくる。また昔は女性の教養として綺麗な着物が縫えないと駄目でしたから、裸人形(はだかにんぎょう)の着物を縫って自分で着せ替える遊びを通して、和裁を覚える。そのためには、頭だけの人形では駄目で、着せ替えるためのしっかりと体躯が必要になってくるわけです。
そしてもう一つ、飾られるために、自分の足で「立つ」人形が出てくる。操り人形は人と糸で繋がってるでしょう? 着せ替え人形にしても自立まではしなかった。人形の自立、立つことはとても大事なんです。かつて祭祀では、人、犬、馬、家、いろんな形の形代を地面に突き刺し、立てることで人間世界の境界を表していた時代もあります。
———何に支えられることなく人形が自立することは、当たり前のようで、いたって困難を擁すると論文の中で述べられています。写実的な体躯を有して、立することが、今日的な人形の成立となっていくのですね。狂い・白肉人形もしっかりと自立していますよね。
狂い・白肉人形も立たないと意味がないんです。はじめの疑問に立ち返ると、狂い・白肉人形の誇張された体躯は、赤ちゃんの生命力を端的に表した形です。自分の体からぐーっと力がはちきれていくような感じ。それとね、生殖器がついているでしょう。これがめちゃくちゃ大事なところで。これも信仰と繋がっていて、子孫繁栄への祈りです。他の例では、「ずずいこ」や「太郎坊」という農耕にまつわる神事で使われる子供の人形には、これも大きな生殖器がついていて、生命力を表している。男の子の生殖器であることが大事なんですね。日本の裸形の人形を見ていく上では生殖器の表現は見逃せないんです。
狂い・白肉人形にも衣装着のものがありますから、私もこれまで人形に衣装を着せてきたんですけど、うちの父(13世面屋庄三)はおでんちを短く着せろと言うんですよ。ヒップラインや腕の膨らみが見えるように着せなさいって。全部隠したら意味がないでしょうと。父は「日本の人形は埋葬のためにある人形ではない。生きている者のためにある」と言っていたんですけど、そういう話を聞いていても、実際に頑張って研究していかないと、腑に落ちないんですよね。
先生からは「あなたは人形を通して文化史を見ているんだ」と言われました。人形の形の変遷を追いかけるというのは要するに、その背後にある宗教性や社会性の変遷を追いかけることだと言われて、なるほどと自分でも思ったんですけど。
先ほどもふれたように、「着物に魂が宿る」という考え方は、江戸中期に入ってくると「魂は身体に宿る」という考え方に変わるんですね。もっと自分の体を大事にしなければいけないよね、という傾向になってくる。そういった背景が人形の形にも表れてくる。
———岡本さんは海外の人形文化にも精通されていますが、日本の人形の独自性はどこにあるとお考えですか?
大学の課題で、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』をテーマに課題を出されて、うちにある古い人形を蝋燭の灯りで見たことがあります。和蝋燭は手で練っていて均一ではないから、風がなくても火がふわふわと縦に動いて、火足も普通の蝋燭より長くてね、その光の中で、人形の表情もどんどん変わっていく。これが日本の人形の面白さなんだなと感じましたね。昔は暗いところで見るものがいっぱいあったんですよね。今は部屋がちょっと明るすぎます。
昔の人形の白い胡粉の艶はなかなか美しくて、何回も塗って磨かれているから層ができる。光を一旦自分の中に引き込んで再発光しているような深みがあります。プラスチックでつくられたものとは全然違いますよね。
最終的に論文を書き上げて思ったことは、日本の人形文化として、ドキッとするような怖さ、幽玄美は非常に大事だということ。これを排除すると日本の人形の面白さ、ダイナミックなところはなくなりますよね。
私は大学院での生活が本当に楽しかったんです。先生にも学友にも恵まれて、研究会も持てましたしね。知らないことを知ること、考えることは楽しい。
きっとみなさん卒業論文に何を書こうかとか、いろいろ悩まれると思うんですけれども、簡単だと思います、それは一番自分が不思議だと思うことです。私はある時、岡本さんは「うん」と頷かないよね、だから研究者に向いてると言われて。「え? どうして?」と思うその積み重ねが研究に繋がっていくと思います。小さな引っかかり、好奇心かな。
絵を描きに来たのに、なんで文章(レポート等)を書かないといけないんだと思う方もいるかもしれないけど、自分の考えを文章にすることはとても大切な鍛錬になると思いますよ。文章にできるということは、自分のイメージがはっきりしてきているということだから。
———伝統や慣習に埋もれた当たり前のことに疑問を投げかけながら、考え続けていく道ですね。岡本さんのこれからの展望をお聞かせください。
SOASロンドン大学東洋アフリカ学院のファビオ・ギギさんという、人形供養の研究をしている方と意気投合して、今度また日本で一緒に研究会をしようと言っていて。私も人形供養はテーマに研究をしていきたいなと思っています。人形が捨てられないのはなぜか、物に魂があるのか。西洋では、物を慈しむ文化はありますが、人形の魂を抜いて供養まではしませんからね。人形供養というのは、一神教ではないがゆえに、物に魂が宿ると感じてしまう日本独自の考え方だと思います。
面庄家では、これまで3人の作家がそれぞれ活動をしていますが、次は海外での展覧会をしたいと話しています。国内に限らず、人形の魅力をもっとみなさんに知ってもらえるようにしていきたいですね。
取材・文 辻 諒平
2024.02.21 オンライン通話にてインタビュー
岡本万貴子(おかもと・まきこ)
1955年生まれ。1975年、嵯峨美術短期大学(現:京都嵯峨芸術大学)生活デザイン染職学科卒業。2004年、京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)芸術学科卒業。2009年、京都造形芸術大学大学院博士課程芸術専攻単位取得。2011年、博士(学術)学位取得。2012年、『裸形と着装の人形史』を淡交社より出版。以後ワークショップ、講演会多数。「ひとがた・人形そして人間研究会」会員。
株式会社 面庄
https://mensho-kyoto.com/
ライター|辻 諒平(つじ・りょうへい)
アネモメトリ編集員・ライター。美術展の広報物や図録の編集・デザインも行う。主な仕事に「公開制作66 高山陽介」(府中市美術館)、写真集『江成常夫コレクションVol.6 原爆 ヒロシマ・ナガサキ』(相模原市民ギャラリー)、「コスモ・カオス–混沌と秩序 現代ブラジル写真の新たな展開」(女子美アートミュージアム)など。