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アネモメトリ -風の手帖-

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#43

‟風景が美しいとひとは幸せになれる”。 イタリアから学んだ都市デザイン
― 井口勝文

(2016.06.05公開)

都市の設計・デザインに50年以上たずさわってきた井口勝文さん。超高層ビルをいくつも建て、それぞれの周囲に公園のような広場をつくる。それこそが都市設計だと信じ、大阪では25年以上の歳月をかけてひとつの地区を開発した。しかし大きな建物をつくるだけでは‟ひとが住みやすいまち”にはならないことに気づいたという。その後、井口さんが手掛けたまちは、どんなかたちになったのだろうか。また井口さんが理想とするイタリアのまちについて伺った。

大阪市アメリカ村のビッグステップ。井口さんが計画・設計を行った。

大阪市アメリカ村のビッグステップ。井口さんが計画・設計を行った

夜間の景観調査のため、井口さんの主導でライトアップする大阪市公会堂。このあと建物の保存とライトアップ計画が大きく前進。

夜間の景観調査のため、井口さんの主導でライトアップする大阪市公会堂。このあと建物の保存とライトアップ計画が大きく前進

レンガ倉庫だった神戸市灘区のショッピングモール。井口さんがコンバージョンを手掛けた。

レンガ倉庫だった神戸市灘区のショッピングモール。井口さんがコンバージョンを手掛けた

——これまでに関わってきた都市や建築で、特に印象に残っているものは何でしょうか?

いちばんは大阪ビジネスパーク(OBP)です。大阪城のすぐ近くで、超高層ビルが立ち並んでいるエリアです。1968年に計画が始まって、マスタープランをつくるところから手掛けてきました。それから25年ほどかけて、最初に計画した建物のほとんどが完成しました。開発を提案した(株)竹中工務店にわたしが入社したのが1965年。若いころは、あんな超高層ビルが建つ都市を設計してみたいと思っていました。だから計画を任されて嬉しかったですね。それから長いあいだ関わってきたので思入れがあります。

——OBPの計画にはどんな特徴がありますか?

OBPのコンセプトは“緑と太陽と広がり”です。建物の周りの広々としたオープンスペースに緑があって、太陽の光が当たるまち。そこで多くのひとが生活や仕事をしたりするためには、空間を上に伸ばす必要があるので、超高層ビルを建てる。これは近代建築の巨匠、ル・コルビュジエが、1920年代に発表した「これからの近代建築はこうあるべき」というかたちそのものです。日本では戦後に、コルビュジエ式の近代建築・都市計画が盛んになりました。

井口さんが関わった都市、大阪ビジネスパーク(OBP)。並び立つ超高層ビルの周囲にはオープンスペースが広がる。

井口さんが関わった都市、大阪ビジネスパーク(OBP)。並び立つ超高層ビルの周囲にはオープンスペースが広がる

——井口さんもコルビュジエ式の都市計画に影響を受けたわけですね。

わたしもまさにその教育を受けていて、大きなビルを建てることが都市計画だと思っていました。それが、OBPのマスタープランを作成した後、1970年にイタリアのフィレンツェ大学に留学して、疑問を感じるようになりました。
当時は留学して建築を学ぶなら、アメリカに行くひとがほとんどでした。日本は戦後からあらゆる面でアメリカを手本にしていましたし、留学するならアメリカの大学で学ぶための奨学金が獲得しやすかったんです。でも留学した日本人はアメリカから帰国するとき、イタリアを回ってくるんですね。というのも、アメリカの大学の先生や書物も、イタリアの都市について語っているんです。つまり欧米の都市はイタリアにルーツがあるわけです。だからわたしはアメリカではなく、はじめからイタリアに行って建築や都市設計について学びました。それから帰国後もOBPの開発に取り組み、別の仕事もやっていくなかで、大きな建物をつくるだけの都市設計の問題点がみえてきました。

——実際につくってみると、どのような問題があったのでしょうか?

後から考えると、‟これでいい”と言い切れない部分がいくつも出てきました。まず問題は、大きな建物を用意して、そこに入居してもらうということです。ひとつの建物ならお金を出す施主の好み通りにつくればいいですが、都市となるといろんな好みを持った大勢のひとが関わります。画一的な建物を用意するだけでは、そこに合わないひとは来てもらわなくていいということになります。
それからビルの周りにオープンスペースがたくさんあっても、同じような風景ばかりでは、歩いていても楽しくないですよね。広い公園だけではなく、せまい路地やいろんな建物があると風景にメリハリが感じられて、そのまちをぶらぶら歩いてみたくなります。そうすると住民同士の交流も活発になる。ようするに、従来の都市設計では、ひととひとが触れ合うような雰囲気のまちにならないんですよ。OBPはマスタープランどおりに開発がすすんで、商業都市としての機能性も悪くありません。ですが、完璧というわけでもないんです。

都市デザイナーとしての井口さんの集大成、ウェルブ六甲道。中央の広場をさまざまな建築が取り囲む。

都市デザイナーとしての井口さんの集大成、ウェルブ六甲道。中央の広場をさまざまな建築が取り囲む

——その問題点をふまえて、どんな都市を設計したのでしょうか?

JR六甲駅道駅の南側に、大きな再開発でできたまち、ウェルブ六甲道があるんです。ここは神戸の震災で大きな被害を受けたところで、復興も兼ねた再開発です。1995年から10年間で、わたしがマスタープランから仕上げまで関わりました。わたしは2000年に退職して、京都造形芸術大学で教えるようになったので、会社での最後の仕事ですね。
特徴はまず、ひとつずつの建物が小さいんですよ。できるだけ小さく分けて、それぞれを組み合わせてできています。そして全体がばらばらにならないように、なんとなくひとつの雰囲気をつくるようにしています。
建物のあいだには路地、ところどころに小さなオープンスペース。そして真ん中に大きな公園があって、そこを取り囲むようにまちをつくっています。住民は自然とこの公園に集まってくるので、ひとが触れ合う機会も増えるんです。実はここにはイタリアのまちのつくりを取り入れているんです

——そのようなまちの開発は大きなビルをつくるより、難しいように思えます。

圧倒的に難しかったですね。ひとつずつの建物の設計者が違うので、それをまとめなくちゃいけない。それに最初、中心に公園があるまちの提案をしたときに、建物のそれぞれに広場があるようにしてほしいという声が上がりました。つまり従来のやりかたがいいと。だけどわたしは、イタリアの古いまちの住民が、とても楽しく暮らしているのを知っています。だからはじめは批判があっても、10年かけてそれまで日本になかった新しい形で、再開発のまちをつくることができたんです。
この公園には周りの住民も、遠方からもたくさんのひとが遊びに来てくれています。わたしがイタリアで勉強したことも入っているし、日本でやってきた仕事の反省も入っている。そういう意味で、会社での最後の仕事としてやって良かったと思っています。

イタリアにあるまちメルカテッロ。井口さんは一年の半分近くをここで過ごす。

イタリアにあるまちメルカテッロ。井口さんは一年の半分近くをここで過ごす

——井口さんはイタリアの小さなまちで、古い町家を修復して住んでいると伺いました。そのまちはどんなところなのでしょうか?

1,500人ほどが住んでいる、メルカテッロという小さなまちです。人口1,500人というと、日本ではかなりの田舎ですよね。たしかにここも田舎なんですが、日本と比べると雰囲気は全くちがいます。
建物のつくりがちがうというだけではありません。建物が密集し、路地は石畳、そして中心に広場がある。周囲には畑や山が広がっているんですが、建物が中心にぎゅっと凝縮しているので‟ひとが少ない田舎の村とは感じません独立した立派なまちなんです。そしてひとつひとつの家に庭があるのではなく、広場が共有の庭になっています。その周りにはバールという喫茶店や、教会、美術館もあって、みんなが集まってくる。だから住民同士の交流も盛んです。

図8

現代の感覚を、伝統的な工法で修復再生したメルカテッロの町家。井口さんは「CASA MERCATELLO」と名付け、夫婦で暮らしている。

現代の感覚を、伝統的な工法で修復再生したメルカテッロの町家。井口さんは「CASA MERCATELLO」と名付け、夫婦で暮らしている

——そこに住んでみて、どんなことに気づきましたか?

1993年にメルカテッロの廃屋になった町家を手に入れて、できるだけ伝統的な工法で修復再生しました。今では年に半分ちかくはメルカテッロで暮らしています。そこで気づいたのは、‟風景が美しいとひとは幸せになれる”ということです。
日本の田舎は、道が全てアスファルト、用水路はコンクリートで固められています。メルカテッロの中心部は石畳ですし、自然のままの川や舗装されていない山道もある。定期的に整備が必要で、不便な面もありますが、この方がいいと住民が思っているんです。これは美意識のちがいだと思います。広場でパーティーをやると、蝶ネクタイをつけたひとがカッコつけてサービスしてくれる。洗濯物の干しかたひとつとっても、はっきりした美意識が感じられます。メルカテッロは、そうした住民ひとりひとりがつくりだすまちの風景が美しい。そしてここで暮らしているひとたちも、実に生き生きとしています。

——日本で主流の近代建築・都市計画のやりかたは、ル・コルビュジエによってヨーロッパで生み出されたと先ほどお聞きしました。それがなぜ、ヨーロッパではあまり広まっていないのでしょうか。

ヨーロッパでも近代建築とか近代都市計画の運動というのは起きたんです。でも住民たちがすごく慎重でした。だから大きな歴史の流れのほんの一部にしかなっていません。コルビュジエは「広々としたところに超高層ビルを建てろ」と主張しました。1972年に実際に、パリのモンパルナスに超高層ビルが建ったんです。するとパリ市民がノーと言ったんですよ。今まで自分たちが持ってる街の方がはるかにいいと。だからパリの中心部には超高層ビルがひとつしか建っていないんです。

——日本では京都の景観が優れているという印象があります。ですが観光に来た外国人の多くは、京都のまちには歴史的な建造物が点在しているだけで、ほとんどが近代的な家やビルだということにがっかりするそうです。京都を訪れたひとがもっと楽しめるようにするには、どうすればいいと思いますか。

昔のまち並みにもどしたいという意味なら、もう完全に手遅れだと思いますよ。ですが、昔のまち並みにはない魅力があります。マンションやビルのあいだに木造の町家がたまにある。それが今の京都です。こんなまちは世界でも他にないですよ。古いものから新しいものまでぐちゃぐちゃに混ざっている。それを楽しむためにはどうすればいいか考えればいい。うまくやれば訪れたひとに「なんじゃこりゃ」という驚きを与えることができます。

——井口さんならどうしますか?

平日の夕方5時から夜の12時まで、まちなかに車を入れなくすればいいんです。土日は終日ストップ。烏丸通や御池通といった広い通りはいいけど、そこから中に入った狭い通りは基本的に歩行者しか入れないようにする。住民や配達の車の出入りは許可して、時間制限も設ける。ようするに完全に車を通行止めするのではなくて、他所者の車をストップするんです。これならできるはずです。
そして道に商店や飲食店がカフェテラスをつくったり、ベンチを出したりすればいい。それこそ車がなかった昔の雰囲気がよみがえってきますよ。エリア一帯が公園の中みたいになって、ぶらぶら歩くだけで楽しめます。車が通らないので子どもだって自由に遊んでいい。住んでいるひとたちにとってもプラスになるはずです。
実はヨーロッパの街はそれを目指してつくってきたんです。日本では、町家が点在していて、個人商店も多い京都だからできることです。そうすれば、住民にも観光客にとっても、さらに魅力的になまちになるはず。可能性はすごくあると思います。

インタビュー・文 大迫知信
2016.04.19 オンライン通話にてインタビュー

イタリアにて、指導する生徒たちとくつろぐ井口さん。京都造形芸術大学の「井口ゼミ」は、毎年イタリアに行き、都市デザインを学んだ。

イタリアにて、指導する生徒たちとくつろぐ井口さん。京都造形芸術大学の「井口ゼミ」は、毎年イタリアに行き、都市デザインを学んだ

 井口勝文(いのくち・よしふみ)

1941年福岡県朝倉市生まれ。九州大学建築学科卒業後、(株)竹中工務店に入社。68年にはじまった大阪ビジネスパークの開発に携わり、70年にイタリア・フィレンツェ大学に留学。帰国後も「大阪市なんば区画整理事業」や「大阪市アメリカ村ビッグステップ計画、設計」、「神戸市JR六甲道南震災復興再開発事業」など関西を中心に都市開発を手掛ける。00年に(株)竹中工務店を退職し、京都造形芸術大学教授に就任。10年から同客員教授。イタリアに造詣が深く、93年にメルカテッロの廃屋となった伝統的な町家を改修。1年の半分近くをここで夫人とともに過ごす。『都市のデザイン』(共著)や『フィレンツェの秋』(共著)など著書多数。


大迫知信(おおさこ・とものぶ)

1984年生まれ。工業系の大学を卒業し、某電力会社の社員として発電所に勤務。その後、文章を書く仕事をしようと会社を辞め、京都造形芸術大学文芸表現学科に入学する。現在は関西でライターとして活動中。