(2014.05.05公開)
かつて鉱業で栄えたまち茨城県日立市に生まれ、図書館司書として働くかたわら地域の昔話や創作話を「語り」続けてきた。また京都造形芸術大学大学院(通信教育)在学中の研究をきっかけに、幼い頃から親しんできた文化施設「共楽館」の成り立ちとその意義を再確認し、現在は保存・活用活動の一環でその歴史を伝えることに励んでいる。大畑さんは生まれ育った日立市にどのような思いを抱き、その土地が持つストーリーをどのようにして人に語り継ごうとしているのか。
——大畑さんは、どんな幼少期を過ごしていたのですか。
子どもの頃は、もちろん本を読むことも好きだったけれど、人が話す言葉に興味を持っていましたね。近くにお年寄りがいて、その人たちがいろいろな「お話」を聞かせてくれていたんです。また、祖父は浜の旦那芸*でいろんなことをやっていて、共楽館を含め、あらゆる場所へ連れて行ってくれた。幼い頃から当たり前のように共楽館へ義太夫や歌舞伎を観に行っていたんです。
*旦那芸……商家の主人などが趣味として習いおぼえた芸事。
——お生まれになった茨城県日立市とは、どういう歴史を持つまちなのでしょうか。
日立市は茨城県の県北の海岸側に位置しています。28kmも続いている海岸線に沿って、JR常磐線の駅が5つもある。1905(明治38)年に日立鉱山(企業)ができて、農村や漁村から鉱山都市を経て工業都市に発展していった歴史があります。日立市は日立製作所の発祥地でもあるんですよ。
鉱山で働く人たちは、働く先を求めて全国各地を転々とすることが多いのですが、はじめは仕事のための移住が、雪も少なく過ごしやすい日立の気候や海や山に恵まれた風景に馴染んでゆき、定住を決める人が多かったそうです。茨城は、古代は「常陸國」、常世の国とよばれ、日立は徳川光圀が「日の立つさま領内一」と呼んだそうで、温暖で、住み心地のよい土地なのだといえますね。
——最初のお話に出ていた「共楽館」とはどういう建物なのか、教えてください。
共楽館というのは1917(大正6)年、日立鉱山で働く人たちのために建てられた福利厚生の文化施設で、創建から間もなく100年を迎えます。
この企業のすごいところは、創業者久原房之助が山に住む人はみんな家族という「一山一家」の精神で、福利厚生を充実させたことです。働く人たちの精神の安定や、働く意欲を向上させるために、学校や病院をつくるのと同じように鉱山劇場共楽館をつくったんです。鉱山で働くということは、まさに命がけ。いつどんな事故が起こって命を落とすかわからない世界です。彼らは日々の疲労を発散させるために、博打やお酒ではなく、芝居や歌というものを求めた。それに創業者が、どうせ建てるならば良いものを鉱山の町としてもいちばんのものをつくりたいという考えを持っていた。そんな、ひとりのポリシーが山全体の方針になっていたんです。昔の産業人たちは、文化に対して並々ならない思い入れがあったということですね。
——共楽館は1,000人もの観客が入る広さの劇場だと聞きました。
構造としては二代目歌舞伎座を参考にしつつ、大正時代の美意識を持っていて、洋風建築と和風建築の良いところを併せ持ったマルチ劇場です。鉱山技師が設計し、建物ひとつ作るにしても完璧主義だし、安全第一。回り舞台や花道もあり、映画、音楽、芝居だけでなく、相撲にも使われていたんですよ。1967(昭和42)年、共楽館が企業から寄贈され日立市の建物になりました。そのときから名称が「日立市武道館」に変わったのですが、私たちは親しみを込めて今でも「共楽館」と呼んでいます。共に楽しむ館。一山一家のシンボルとして、鉱山の人たちだけでなく、地域の人たちみんなで楽しむという意味が込められているんです。
——ここからは大畑さん自身について教えてください。今までどのような仕事や活動をしてこられたのですか。
私は神奈川にある大学を卒業してから40年間、日立市記念図書館などの司書や郷土博物館で教育普及の仕事などをしました。また、このまちは大正時代から映画を用いた視聴覚教育が盛んだったものですから、視聴覚センターというところで映像の制作や教育情報の仕事に関わりました。
働きながら認識させられたのは、図書館には文化を伝承するという役割があるということ。例えば「資料」といっても、さまざまに違うビジュアルがありますよね。紙もあるし、映像もあるし、実物を展示できるものもある。そんなふうに記録されてきた文化の「見せ方」に興味を持って携わってきました。1冊の本でも、1枚の紙でも、扱う場所によって見え方が変わる。40年という時間の中で、そのときどきの場所に関わりながら、その面白さを感じ取っていったといえますね。
——純粋に、40年間続けてこられたという事実がすごいです。
いや、今でも、まだ他にやるべきことがあるのかもしれないと思っているんですよ。図書館員として働きながらも、何かできることはないかと日々模索していたんです。
——そのひとつとして見つけたのが、お話を「語る」という活動だったのですか。
そうですね。今でも続けているライフワークとして、私はストーリーテリング(素話)というものをやっています。はじめた理由も、子どもの頃から人のお話を聞きに行くということが好きだったからかもしれません。食べ物も、風土も、歴史のすべては人を介在して伝わってゆきます。昔話の中にはそれがすべて含まれている。何十年、何百年経っても、お話の中のメッセージが次世代へ脈々と伝わってゆく。不思議だなと思います。
——それから定年退職直前の2004(平成16)年、京都造形芸術大学の通信教育部に入学されましたね。
リタイアの前に、その先も自分の何かを見つけなくてはと考えていたんです。若いときにやりたかったことが中途半端に終わっていたので、それを勉強したかった。大学の卒業研究は、茨城県の佐竹氏*ゆかりの江戸期の洋風画家・小田野直武と秋田蘭画の系譜を研究しました。解体新書の挿絵を描いた人ですね。
この大学に入って良かったのは、京都のまちをよく知ることができたことと、私より高齢の方が一生懸命勉強する姿を見られたこと。歳の差は関係なく、同じ教室で勉強できたのが楽しかったです。みんなそれぞれに経験を経て、土地を背負って来ているということを感じましたね。人それぞれに置かれた環境や経験により、知っていること・ものの捉え方も異なり、斜めからとか、別の角度から見ていくこともある。そういえば、自分ではよく書けたなあと思うレポートが評価されないこともありましたね(笑)。人の感性ってさまざまなんだなと、そういう気づきができたのも、大学時代です。
*佐竹氏……常陸の武家。北関東有数の源氏一族。平安末期から安土桃山末期まで常陸国に拠点を置いた。
——そして、大学院では共楽館を研究テーマにされたのですね。
はい。私にとって幼い頃から映画や歌舞伎を観たり、音楽を聴いたりしてきたのが共楽館なんです。誰に言われたのかは忘れてしまいましたが、文化をテーマにするのであれば、あなたのまちにある共楽館を調べればいいのでは、と勧められた。当たり前のことすぎて気がつかなかったけれど、自分のまちにこんなにすごいものがあったと再認識したことが、自分にとって大きな発見でしたね。ちゃんと鉱山の歴史を調べてみたいという気持ちになった。もちろん共楽館が素晴らしいものだとはずっと思っていましたが、他の人に知らせなければ、伝えなければという気持ちになったのは、このできごとがきっかけでした。
日立で生まれ育った人たちみんながここで最初の文化体験をしているんです。共楽館を単なる建物ではなく、心の拠りどころ、ご先祖様のように慕っている人が多い。共楽館という存在が、このまちにとって100年前からの預かり物だし、私たちにはそれを次の世代に渡してゆく使命があります。また、共楽館に限らず、日立の海岸は、寒流と暖流のぶつかり目で気候も文化も交流しあう場所なんです。国内だけでなく、外国からも含めて、ありとあらゆる「お話」や「文化」が打ち寄せられてきた。日本武尊の伝説も、海幸彦山幸彦の伝説もあるんです。だからこそ、ここに故郷を持つ私が語るべきものがあるんだと、そう思います。
——大畑さんが「語る」ときには、どういうことを大事にしているのでしょうか。
私は、昔の人が伝えたいと思ったことを、そのままの形で次の世代に伝承してゆくのがいちばんだと考えています。お話の中にあるメッセージ——本質を伝える、ということですね。相手は、子どもたちだけではないです。若い人も、お年寄りにも昔話を聞きたい人たちがたくさんいる。お話を聞くと、ただ懐かしい気持ちになるだけではなく、おのずと自分から言葉が出てくるようになります。今まで聞き手だった人が、聞いたという「体験」を糸口にし、今度は自分から語り出す。そこが「語り」や「ことば」の面白いところです。
アイルランドやアフリカでは「ひとりの老人が亡くなることは、ひとつの図書館がなくなることだ」と言われているそうです。おじいちゃんやおばあちゃんが何かを語り出すときって、本も何も手に持っていないでしょう。老人の身体の中にたくさんのお話が蓄えられていて、そのことばを介して別の人たちに伝わってゆく。だからこそ受け取る側は、思い思いの登場人物をイメージできるんです。聞いてくれる人の、いつどこで、どんな服を着て聞いていたのか——そこまでの光景をつくり出す。私がストーリーテラーとして語るときに重きを置くのは、どういう演出で語るかではなく、そのお話をどう伝えてゆくかということなんです。あくまで主役は「お話」。私はただ、ストーリーを紡ぐというかな。
——「紡ぐ」とても素敵な言葉です。最後に、これからの目標を教えていただけますか。
実は、取り立てて大きな目標というものはないのですが、自分の生きる役割としてお話をこれからも少しでも人に伝えてゆければと思います。今は口承文芸研究者の小澤俊夫先生と一緒に「いばらき昔話大学」や「再話研究会」を催したり、「共楽館を考える集い」という団体の20周年誌の編集を手伝ったり、共楽館を活用していろんな行事をしています。まだまだ、やるべきことは多いです。
図書館司書として文字に関わってきたからこそ、子どもたちが文字を読み始める前の、耳を肥やすきっかけをつくる人でありたい。何にしても自分ひとりでは「紡ぐ」ことはできないですから、他の人と一緒になりながら、活動を続けていければいいですね。
インタビュー、文: 山脇益美
2014年3月13日 電話にて取材
大畑美智子(おおはた・みちこ)
1945年茨城県日立市生まれ。1965年に大学卒業後、日立市立記念図書館で司書として勤務。以来公共図書館を中心に、学校図書館、郷土博物館で働く。2005年視聴覚センター所長を定年退職。本と子どもの読書に関わるライブラリアンとしての仕事と共に、ストーリーテリング(昔話や創作物語の語り)をライフワークとし、図書館や地域でおはなし会などを行ってきた。2004年京都造形芸術大学通信教育部入学(3年時編入)、2009年京都造形芸術大学大学院(通信教育)芸術環境領域卒業。
山脇益美(やまわき・ますみ)
1989年京都府南丹市生まれ。京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース卒業。今までのおもな活動に、京都芸術センター通信『明倫art』ダンスレビュー、京都国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」インターン、別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」、「国東半島アートプロジェクト」運営補助、詩集制作など。