(2023.11.12公開)
大阪市西成区・通称釜ヶ崎はかつて日雇い労働者のまちと呼ばれ、時代とともに複雑に変化してきた場所だ。詩人・詩業家であり、NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)代表の上田假奈代(かなよ)さんは、芸術関係者があまり近付かないこのまちで、2000年代はじめより出会いと表現の場を耕してきた。2012年からは釜ヶ崎のまち全体を大学に見立てた「釜ヶ崎芸術大学」を始動させ、「横浜トリエンナーレ2014」にも出展し注目を集める。
上田さんは様々な問題を抱える人々に対して、支援者としてではなく雑談相手としてまず言葉を交わすという。彼ら自身の言葉は時に生きる力を呼び起こし、この場所からユニークでパワーに溢れた表現が次々に生まれてきた。2023年に活動20周年を迎えた今、上田さんが「茨の道」と表現するその歩みについて伺う。
———ゲストハウスとカフェと庭「釜ヶ崎芸術大学」というスペースについて教えてください。
数年前からカラオケ居酒屋がたくさん並んでいるような商店街のなかにあって、30坪ほどの3階建て、ゲストハウスには35ベッドあります。1階は喫茶店のふりをしていて、うなぎの寝床のように奥が深く、抜けると60坪くらいの庭があって、野生的な植物が植わっていたり、自分たちでスコップで掘った井戸や、焚き火のできるスペースもあります。
本当にこの場所を説明するのは難しいんですけど、いろんな人がここで出会い、表現し合うことで生きることを深くしていくような、お互いの人生に影響を与え合っていく場所だと私は思っています。
———国籍、年齢、性別も様々にたくさんの方々がいらっしゃいますね。
本当に多様で、地域のおじさんたち、家族連れ、小学生3人組が卒業旅行ということで来たり(笑)、研究者やアート関係者もいらっしゃいます。かと思ったら、おじさんが公園で野宿をしている外国人の方を連れてきたり、全てを失ってどこに行ったらいいか分からなくなった人がお寺からうちを紹介されてやって来ることもあります。どこにも「相談にのります」とは書いていないんですけど、365日開いていて、周りからはそういう場所だよということになっているのかも。本当に大変困難な状況の方もいらっしゃいます。その方の状況に応じて、無償で宿泊できるシェルターにおつなぎすることもあれば、恩送りチケットという、うちの寄付の仕組みを使ってご飯を食べてもらうこともあります。
———ココルームの始まりは2003年、大阪市との協働事業「新世界アーツパーク事業」に遡りますね。浪速区の商業施設・新世界フェスティバルゲートの中でいくつかのNPOが文化振興を行う事業でした。
新世界アーツパーク事業では、現代文学の担い手として参画しないかと誘われました。いろんな人が芸術に触れる機会をつくっていくのがこの事業のミッションだろうと考え、365日喫茶店のふりをすることにしたんです。スタッフとお客さんで一緒にまかないご飯を食べる、そんな場で自分の考えていること、悩みごとを話す、生きるために伝え合うことはめちゃくちゃ大事じゃないですか? それを表現として大事にしようと考えたので、喫茶店のふりをするのが一番みなさんにも気軽に入ってもらえるんじゃないかなと。また、この場所を使って自分の表現の場をつくっていきたい表現者たちにスタッフになってもらって、皿を洗いながらも助成金の申請書を書くとか、イベントの企画をするとか、それぞれ生きる力をつけていこうとした試みです。
結局2007年の12月に事業は終了、その建物を出なくちゃならなくなって、他の団体は解散や移転し、私だけが大阪に残りました。釜ヶ崎に拠点を移し2008年の1月から「インフォショップ・カフェ ココルーム」として再スタートし、2016年にいまの場所に引っ越しました。
———新世界を経て、拠点を隣町である釜ヶ崎に移されたわけですが、上田さんから見て釜ヶ崎の魅力はどこにあったのでしょうか。
釜ヶ崎で医療や福祉の支援活動を行っている方々にコーヒーを出しながら、まちの背景や現況を教えてもらいました。話を聞いていると釜ヶ崎のおじさんたちは、高度経済成長時代にめちゃくちゃ働いていた人たち、この人たちのおかげで暮らしは便利になり私は成長していったんだなということがわかりました。
当時の釜ヶ崎には本当に用事がなくてね(笑)、美味しいパン屋さんがあるわけでもない。でも時折出かけていくと、まちかどを曲がったところに、ダンボールを積んだリアカーをひくおじさんがいて、
貧困ビジネスのようなものがある一方で、何かおじさんたちのためにしたいんだけどお金がついてこないとか、支援者の方も含めて、釜ヶ崎は人間くさい難しさをもっているまちです。芸術活動をしている人がこのまちで芸術を仕事にすることはないんだけど、私はこの場所でやってみる方が面白いだろうと思いました。誰かがやっていることの後追いをするのは下手くそなんです。ロールモデルがあっても、それに自分が合っていないと落ち込んだり、気を使うのが嫌で。それだったら茨の道でも、聴いたこともないようなハーモニカの音色のする釜ヶ崎でやってみたいなと。
社会から存在を見えなくされている人たちが、それでも生きていて、クリエイティブな人たちがいっぱいいるわけです。そこに表現が関わることで、仕事をつくれるんじゃないのかしら、お金や名声から切り離された純粋な表現、芸術の源泉みたいなものがここにある。私自身は根源的な想いに惹かれながら、それを仕事としてつくり出していくことができるなら芸術の仕事として尊いんじゃないかと思ったの。
———2012年からは釜ヶ崎のまち全体を大学に見立てた「釜ヶ崎芸術大学」が始まりますね。現在のスペースの名前にもなった重要な取り組みですが、構想はどこから?
その頃、私はまちの音が変わるという言い方をしているんですけど、釜ヶ崎のおじさんたちが高齢化して威勢がなくなってきたんです。おじさんたちの暮らしのそばに私たちが行くことによってかつての音にまた出会えるんじゃないかと思い、まちを大学にするという発想が生まれました。
初期に講義に来ていただいた美術家の森村泰昌さんや、狂言師の茂山千之丞さん、宗教学者の釈徹宗さんと、錚々たるメンバーに講師をご担当いただきました。今もだいたい年間80~100くらい授業を組んでいます。
当時は、このまちの変化を捉えて、新今宮という名称を推したいというムーブメントが立ち上がっていました。もちろんそれは悪いことではないんですが、労働者の寄せ場としての文脈があって私たちの繁栄があったわけですから、それを踏まえたうえで釜ヶ崎から考えたいと思いました。はじめは私たちのような余所者が釜ヶ崎という名前は使えないと思っていましたけど、2008年から2011年までの間、まちの活動にも参加し、ある程度ネットワークができてきたタイミングで、釜ヶ崎芸術大学という名前を名乗ることにしたんです。世の中的には釜ヶ崎と芸術大学という言葉があまりにもミスマッチだから印象は強かったみたいですね。
———年間それだけの授業数が非営利で継続されているのはすごいことですね。
参加はカンパ制で困窮している方は無料でも。でも、それを生業としている講師の方へのお支払いも、広報物や会場代、人件費など経費はもちろんかかりますから、寄付を呼びかけています。もちろんうまくいくことばかりではなくて、講師をお願いしてもギャラが安い、釜ヶ崎でそんなことがやれるとは思えないとオファーを断られることもありますよ。かと思いきや、旅費から何から全部もつからやらせてほしいと言ってくださる方もいますね。エジプト美術品の日本一のコレクターである菊川匡さんはどうしても釜芸でやりたいといらっしゃいました。
10年前に授業に参加してくれた人たちのほとんどが天国に卒業してしまって、釜のおじさんたちの参加は正直減っているんですが、参加人数自体はずっと変わらないんです。近隣の生活保護を受けている方だったり、生きづらさを抱えている人だったり、宿泊しているゲストや通りすがりの方から、新幹線や飛行機に乗って参加したいという人まで。
———20年の取り組みの中で、特に印象的だった出来事はありますか?
2019年の4月から半年間、最終的に700人くらいの力で庭に井戸を掘ったことは大きかったですね。私の友人がアフガニスタンで井戸を掘る活動に参画していて、その頃から井戸掘りか、とは思っていたんですけど、3年くらい迷ったんです。上下水道の整った大阪で井戸掘りなんか馬鹿げてますから(笑)。でも当たり前を疑ってみる、それって芸術の姿勢じゃないですか?
釜ヶ崎のおじさんたち、地面を掘るのが仕事でした。彼らの十八番である土木、彼らの表現を私たちが教わる、追体験することには意義があるなと思って。
リタイヤしたヨボヨボのおじさんがスコップを持ったら突然腰が入るんですよ(笑)。井戸掘りを通じて、無口だった人が他の参加者を気遣ったり、教えたりとコミュニケーションを図っていく。色んな回路が井戸掘りの中で起こりました。石にぶつかって、奥にはもっと大きい石があるかもしれなくて、でも掘るしかないよねと覚悟を決めて掘る。不確実なことに対して話し合いながら、その場その時でできることを選択していく。その連続の中に自分たちが生きていく力を耕していけたと思っています。
———ただ生きていくだけなら、表現は必要ないという意見は世の中にあるかもしれません。上田さんは「生きること」と「表現すること」はどのように豊かに結びつくと考えられますか。
哲学者の鶴見俊輔さんが提唱された限界芸術という考え方をご存知でしょうか。おしゃべりとか鼻歌とか、落書きとか、日々の営みの中で誰かと分かち合うような、自分自身を喜ばせるような表現です。釜ヶ崎にいると、そうしたものの良さをとっても感じます。ホームレスになったり、家族を捨てたり捨てられたり、どうしようもなくなって逃げてきちゃったりと、このまちの人たちは社会的弱者とされます。でもこれまで抑圧されてきて、苦労がいっぱいあった人が心を開いてくれたときに表してくれるものは本当にユニークだし、とてもパワーがあります。
でも普段は支援されている側ということで閉じ込められているんですよね。そうではなくて実は社会を変えるくらいの力を持っている存在なんだ、と私は感じています。支援者たちも、正しさを背負ってとても重くなっているんじゃないかと思うし、支援する側もされる側もずっと役割を被せられているように思う。この固定化がめちゃくちゃもったいない。それだと膠着しちゃうから、お互いの立場をぐるぐる入れ替えることが社会を前に進めていくんじゃないかと思っていて、その時に表現し合うことが有効なんじゃないかなと。
例えば釜芸で狂言の講座では、おじさんたちも支援者たちも狂言なんてやったことなくて、はじめての人たちがお互い一緒になって摺り足をやってみるんですよね。
泊まるところもお金もなくてうちに来た人が、ご飯を食べながら自分のことを語り出すとき、その内容は相談室では語られないことだったりするんですね。それは私が支援者ではなく雑談相手として聞いているからで、その語りの中で、その方自身が自分はこういう風に生きてきたし、実はこんな風に生きていきたいんだと、どんどん顔をあげていかれるんですよ。その姿はとっても美しいし、いろんな人にそんな機会があるといいなと思います。
———言葉で表現することが、膠着したパワーバランスや、下を向いていた気持ちをゆっくりとほどいていくきっかけになるのですね。
言葉にするのはすごく難しいことだと思うんですよ。本人が語ることによって、ご自身で気付き、力になることが多くあるなとは思うんですけど、その語りを引き出すのは言葉だけじゃなくて、みんなで笑いあったりとか、体を動かしたりとか、集中する時間やきっかけがあった時にはじめて語りになるなと思っています。語ることで自身に張り付くというか、もう一回自分の耳で聞いて、より強度を持つと思うんですよね。私自身は「言葉を人生の味方に」とキャッチフレーズのように使っていますが、まさにそういう風に言葉と付き合いたいな、と思っています。
私も最終的には詩をつくるけど、その前に下手くそに絵を描くとか、体を動かしてほぐれてみるとか、やっぱりそういう手順を踏んで開くし、自分の言葉を引っ張り出すように工夫しています。
表現の可能性というものは、表現することよりも、表現できる場をつくっていくことにおいていっぱい生まれるんだと、これからもこの場所で伝えていきたいなと思います。
取材・文 辻 諒平
2023.10.12 オンライン通話にてインタビュー
上田假奈代(うえだ・かなよ)
詩人・詩業家。NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)代表。
1969年奈良県吉野生まれ。3 歳より詩作、17歳から朗読を始める。1992年から詩のワークショップを手がける。2001年「詩業家宣言」を行い、さまざまなワークショップメソッドを開発し、全国で活動。2003年新世界フェスティバルゲートで、ココルームをたちあげ「表現と自律と仕事と社会」をテーマに社会と表現のかかわりをさぐる。2008年から西成区通称・釜ヶ崎で「インフォショップ・カフェ ココルーム」を開き、喫茶店のふりをし、2009年向かいに「カマン!メディアセンター」開設。「ヨコハマトリエンナーレ 2014」に釜ヶ崎芸術大学として参加。2016年春移転し「ゲストハウスとカフェと庭 ココルーム」を開く。詩写真集『うた』(WALL)、『こころのたねとして~記憶と社会をつなぐアートプロジェクト』(ココルーム文庫)、朗読CD『詠唱! 日本国憲法』、『あなたの上にも同じ空が』ほか。初の長編映画『釜ヶ崎オ!ペラ~恃まず、恃む、釜ヶ崎』を製作中。大阪市立大学都市研究プラザ研究員。2012年度朝日21関西スクエア賞。2014年度文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞。
www.cocoroom.org
www.kanayo-net.com
ライター|辻 諒平(つじ・りょうへい)
アネモメトリ編集員・ライター。美術展の広報物や図録の編集・デザインも行う。主な仕事に「公開制作66 高山陽介」(府中市美術館)、写真集『江成常夫コレクションVol.6 原爆 ヒロシマ・ナガサキ』(相模原市民ギャラリー)、「コスモ・カオス–混沌と秩序 現代ブラジル写真の新たな展開」(女子美アートミュージアム)など。