アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#129

好きなことから道がひらく。誰かとアイデアや思いを交差させ、ともに高め合う
― 濱田織人

(2023.08.13公開)

濱田織人さんはベーシスト、音楽プロデューサー、クリエイティブディレクター、芸術教育の専門家であるアトリエリスタ、さらに里山の環境再生事業を中心としながら、自然のなかで子どもたちの自由を育てる活動「NPO法人SOMA」副代表理事も務めている。また、裏千家の茶道家やプロサウナーという一面も持ち、濱田さんの経歴と肩書きは一言では説明しづらい。このようなありかたに至るまでどのような変遷があったのか、あるいは共通する濱田さんの姿勢とは何かを伺った。

Photo by きるけ。

Photo by きるけ。

———現在の活動や仕事について、ご説明いただけますか。

ベーシスト・音楽プロデューサーとして20年以上活動しながら、2021年から株式会社lierista(リエリスタ)という会社を創業しました。主に聴覚領域の制作・プロデュースや、企業や行政の課題解決と可能性創造、芸術的感性と具現化する技術を通し、さまざまなステークホルダーの価値創造をするためのプロジェクトの実装、教育環境の提供などを行っています。
社名の「リエリスタ」とはイタリアの「レッジョ・エミリア・アプローチ」という幼児教育実践法があり、その藝術教育の専門家である「アトリエリスタ」から由来しています。教育の専門家(ペダゴジスタ)に加え、藝術の専門家(アトリエリスタ)が必ず配置されるという教育実践方法なんですが、それにすごく感銘を受けたんです。上から下に押し付けるような教育ではなく、子ども一人ひとりが持っている感性を引き出すような場づくりやしくみづくりをしているところに強く共鳴しました。
レッジョに出会ったのは2007年くらいで、まだ「デザイン思考」や「アート思考」という言葉が今の時代のように世の中に出てくる前です。その人自身の価値に寄り添うような育み方って、僕の仕事の全部に通ずるなと思ったんです。それは音楽プロデュースやミュージシャンとしてもそうですし、ブランドやプロダクトや企業や地域と関わるクリエイティブディレクターの仕事としてもそうです。「あなたの仕事は何なのか?」とよく聞かれるんですけど「価値を創ることと、価値を創る人を支援すること」と答えています。

———キャリアはどのようにスタートされたのでしょうか。

10代から、ベースのスタジオミュージシャンとして活動を始めました。そのあと海外や大学に行って、「とりあえず3年ほど社会を見学して、またミュージシャンに戻ろう」と思い、企業に入社しました。人との出会いにとても恵まれて、その後も続けながら会社の顧問業や創業の経験を経て、最終的に自分の会社を設立しました。
運よくミュージシャンでも、クリエイティブ業としても続けてこられ、2本のラインが常に走っています。最初から複業をしようとか、幅広く活動しようなんて思ったことは一度もありません。結果としてそうなっただけなんですよね。また、そもそも音楽自体が、そのあたり自由なものだとも思うんです。ロックもやるし、ジャズもファンクもクラシックもやるし……みたいな。クリエイティブの仕事もパートナーの業態は常に色々ありましたし、予算の大小もさまざまで、常にいろんな状況でいろんな人達と一緒に仕事をするのが普通のことだったんです。一般的には珍しいあり方だったのかもしれませんが、僕の周りの人たちにとってはそんなに珍しくないと思っています。結果としていろんな種類の打席が常にありがたいことにあった。そんな気がしています。これが後にストラクチュアル・ホールな人材とある方に言っていただけるようになり、なるほどなと思いました。

クリエイティブディレクターとしての事例の一部。日本生命のブランドタグラインリニューアル、広告制作、オリンピック・パラリンピックコミュニケーションディレクションに携わった

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グローバルブランド「LOEWE」と日本のコンテンツやカルチャーを掛け合わせたプロジェクト。日本文化や茶道のプロの知見も入れながら、日本茶やほうじ茶、甘酒といったドリンクのプロデュースも行った Photo by Masahiro Ibata

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Photo by Masahiro Ibata

———さらに遡ると、もともとは医師を目指されていたそうですね。このはどのように育てていかれたのでしょうか?

子どもの精神科医になりたくて、ずっと目指してひたすら勉強していました。なかなか目に見えづらいことや、苦しんでいる人がいることを子どもながら感じていて。人の顔に出ていることと言葉や内面が違うっていうのは、若いうちから気づきますよね。そういうギャップや苦しみを減らせる仕事に就きたいなと思っていました。
医師にはなりませんでしたが、今の仕事にも通ずることがあると思います。例えばベースを弾くことにしても歌っている人を支える仕事ですし、ブランドや地域の誰かの背中をお預かりすることも、僕が目立つというより、やはり人を支える仕事です。後ろから支えてその人たちの力を100以上のものにするという思いは、ぶれずにある軸です。そのために必要なことは、実践のなかで自然と身についていったと思います。

———その人自身の力を引き出しながら支えたいという思いには、何かきっかけがあったのでしょうか。

ベースを弾きながら自然に思うようになったんだと思います。最初は純粋にベースという楽器の音が好きで始めたんですが、バンドのなかでも支えるポジションじゃないですか。そのほかの仕事も徹底的にやっていて思うのは、仕事やものづくりって一人では絶対にできないんです。ベースも基本的に、ほかのメンバーがいて成立できるポジションなので「一人じゃなにもできない」という考えが骨身に染みていると思います。だから、一緒に仕事をする人たちへのリスペクトも常にあると言いますか……

「仕事の姿勢は音楽を通して身についた」と話す濱田さん。スタジオミュージシャンとして、ベーシストとして、また音楽プロデューサーとしてと、音楽活動も多岐にわたる Photo by きるけ。

「仕事の姿勢は音楽を通して身についた」と話す濱田さん。スタジオミュージシャンとして、ベーシストとして、また音楽プロデューサーとしてと、音楽活動も多岐にわたる
Photo by きるけ。

———一見違うようなさまざまな仕事も、実は根底でつながっていることが多いかもしれません。会社や職種などが変わる、仕事がひろがるなかで濱田さんご自身に変化や、反対に普遍的に思われることはありますか?

やっていることはそんなに変わっていないと思います。どんな仕事でも「アイデアには価値があり、それに対する対価をもらいたい。そして、そういう市場にしていきたい」ということには変わりないと思います。

———それは重要なことだと思います。アイデアそのものは明確に数値化しづらく、価値が伝わりづらかったり、また価値のないものとして扱われたりする場面が度々あるように感じます。

数値化できるもので経営をして、日本は成長しきれなかったところもあったと思います。ロジカルシンキングだけで世の中のマーケットが大きくなっていれば、今こんな不景気は起きていないはずですよね。いくつか原因はあると思いますが、例えば数字の取り方が正確じゃなかったんじゃないかとか……
だったら、自分の人生を自分の手で主体的につくっていくことは本来当然なはずですし、そのほうが前向きだし、先程のデザイン思考やアート思考が選択肢として前に出始めていることは同じ理由な気がしています。僕はそれを証明したかったので、いわゆるクリエイティブブティック(専門的な技能をもった少人数の広告制作プロダクション)業を始めたんです。それができたのも、経験をたくさん積ませてくれたこれまで関わった方々のおかげだと思っています。「世の中はなにで動くのか」「どうすれば求めている目的に辿り着けるのか」という、いい現場をたくさん見せてくれるご縁ばかりでした。それを自分なりに体のなかに取り込んでいるから、今もなんとかできているんじゃないかなと思っています。

———自分の人生を自分でつくっていくために、濱田さんはいろんなことをうまくキャッチされていると感じました。そのためにどのようなことを大事にされていますか?

日々とてつもない情報に触れるので、一つひとつ丁寧にジャッジできない現実もありますが、自分のなかで勝手に判断しないようにする努力は常にしています。とても難しいですけどね。
旅なんて、その最たるものですよね。たとえばグランドキャニオンも、写真で見るのと実際に見るのとではスケール感がびっくりするぐらい違う。リアルに見に行くと地平線の奥まであるんですよ。切り取られた情報とのギャップがあります。一次情報に触れるくせをつけないと、クリエイターとしてはちょっと危ういなと思っていて、自分の五感でも感じる、手を使って考える(アートの語源でもありますよね)ことを大事にしています。

———そう聞くと、もしかすると今名乗られている肩書き以外にも、濱田さんの活動はひろがりがあるんじゃないかと感じました。

肩書きは極力名乗りたくないですね。周りの人にいつも「どう説明したらいいのかわからない」と言われています。やっぱりこれっていけないことなんですかね? いつも悩みますね。今があるのは、自分でやるべき仕事を選び続けた結果だと思います。たとえば餃子が好きで詳しい人や、山歩道をたくさん知っている人が突き詰めていくと自然とその道のプロになって、誰かのためになるのであれば対価がもらえ、仕事になると思うんです。とはいえ、ミュージシャンはもともと仕事と遊びの境目が最初はあんまりない一面もあると思います。幼いながらに生意気ながら、世の中にはびこるバイアスがかかった言葉や思考に縛られたくないなとは漠然と感じていました。特にミュージシャンはそういう世の中の流れからは一度はみ出しているので、物事をはたから見ることができるのかもしれません。その観察する力は、クリエイティブディレクターとしてもすごく大切で基本的な視点ですね。

最初は「腱鞘炎予防のために」と通い始めたサウナにのめり込み、サウナーとしての発信が増えてきている。BRUTUS「サウナ、その先の楽園へ」特集では、外部編集として欧州の取材を行った。また、サウナ後のためのビール「SAÚDE」をコエドビールと開発した

最初は「腱鞘炎予防のために」と通い始めたサウナにのめり込み、サウナーとしての発信が増えてきている。BRUTUS「サウナ、その先の楽園へ」特集では、外部編集として欧州の取材を行った。また、サウナ後のためのビール「SAÚDE」をコエドビールと開発した

———里山の環境再生事業と、子どもたちを自然とともに育む「NPO法人SOMA」にも副代表理事として携わられています。このような事業はどのように立ち上がったのでしょうか。

立ち上げ自体は代表の瀬戸昌宣が行いました。彼はもともとアメリカの有名な大学で博士号をとり、かつ国の研究もしていた素晴らしい生態学者です。彼も人生のなかできっかけがあり日本に帰ってきて、地域との事業をしながらSOMAを立ち上げました。
その数年後に彼と出会いました。僕自身レッジョの研究をしていた時期もありましたし、仕事の関係で少し休んでいた時期でもありました。そんなタイミングで瀬戸に出会い、改めて教育について向き合いたいと思いました。
NPOって、運営が本当に難しいんですよ。お金をしっかり稼ぐことも必要ですし、自分たちの理念を継続して事業としてやっていくことも難しいし、日本と海外との差もいろいろあります。そんな状況のなかで、僕みたいなポジションが足りていないんじゃないかと勝手に思い込んで、「手伝いたいから一緒にやらせて」と押しかけました(笑)。
最初にお話ししたレッジョ・エミリア・アプローチは、教育の先生と藝術の先生ふたりの先生によって行われます。SOMAの場合、瀬戸は生態学者なので、科学者(エコロジスタ)と僕(アトリエリスタ)のふたりで教えるっていう点では、レッジョとは別アプローチの一つとして面白そうだなと。科学と藝術、事実と解釈など2つの視点で観察をしていくと、いろんなものの見方をするきっかけを創出できるんじゃないかと思いました。NPOなので国の補助金や仕事をいただきながら、経産省や文科省といろんなプロジェクトの実践と研究も行い、場づくりをしています。

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山と木を見守る人たちを「杣人(そまびと)」を由来に名付けられた「SOMA」。木や森、山など自然環境に耳をかたむけながら、未来を見据える杣人のように、ひとりひとりに寄り添い育むことを目指している。画像は定期的に開催する宮地山の環境再生事業「山結び」。当日まで何を行うのかは決めず、現地の状況を調査しながら、その日できることを参加者とともに考え、実践するというユニークなもの

山と木を見守る人たち「杣人(そまびと)」を由来に名付けられた「SOMA」。木や森、山など自然環境に耳をかたむけながら、未来を見据える杣人のように、ひとりひとりに寄り添い育むことを目指している。画像は定期的に開催する宮地山の環境再生事業「山結び」。当日まで何を行うのかは決めず、現地の状況を調査しながら、その日できることを参加者とともに考え、実践するというユニークなもの

———重なるタイミングで、濱田さんは京都芸術大学大学院に入学されていますね。

瀬戸と一緒に仕事をしていくなかで、彼から研究の仕方や姿勢を学びながら、僕自身実践はこれまでたくさん積んでいるけど、アカデミアな視点が足りてないなと思い、こういう視点も必要なんじゃないかという思いが芽生え始めました。その矢先にモデレーターとして出版イベントのトークショーに参加することになり、そこでその後師事することになった早川克美先生に出会い、新しくできる大学院の話をお聞きして入試を安易な気持ちで受けました。運良く合格できてよかったんですが……
在学中は、僕の場合NPOの立場もあれば大学院生の立場もあるから、それらを連携したモデルをつくりながら研究して、国の補助金をとりながら研究成果を社会実装として世の中に出すプロジェクトを立ち上げました。学会発表は終わったので、論文も書かないといけませんよね……

学会発表でのようす

学会発表でのようす

———教える側のみならず、教わることも経験され、濱田さんのなかで変化はありましたか?

アカデミックな領域って、きちんとファクトを積み上げて系統立てて考え、何かに残すという、かなり大変な領域ではあるんですよね。先人たちのレンガを一つずつ積むような積み重ねの上にある世界です。普段の仕事に比べると、圧倒的に歩みは遅いわけです。でも、そのスピード感ばかりに逃げちゃいけないなと思いました。
自分が携わることの意味を一つひとつ紐解いていく作業でもあったので、僕の行動や仕事の精度も上がったと思います。数字で測れないことや定量化できない部分もすごく多いですが、今の科学やある環境のなかで、いろんな状況をふくめてどこまで見出せるのかとか。研究とはそのプロセスにおいて自分のやっていることや、感じていることの意味を突きつけられるので、成長の機会で苦しみながら勉強しました。

———学びがさらに発展される予感がします。濱田さんご自身の、今後の展望を教えていただけますか。

変な捉え方をされたくないんですが、僕のなかでは常にリアルなものを動かしている人を支援したいんです。それこそ、目の前で楽器を弾きながらたくさんのものを背負いながら歌っているシンガーもそうですし、たとえば一次産業の人だったり、地域のエッセンシャルワーカーだったりとか。そういう人たちがいないと困るのに、業界では継ぎ手に常に困っている。
SOMAでは子どもの教育と環境再生事業をやっていますが、僕から見ると綺麗な山でもプロの目から見ると「危機的状況にある山」に見えることが多々あります。山には本来保水する役割があるのに生物多様性がなくて保水量が少なかったり、崩れていたり水が氾濫していたり、当たり前のように飲める水が出なくなったりとか。今までは大丈夫でしょうと言われていた当たり前にある状況や環境に、致命的な問題が起こり始めています。そこに対する課題意識は知識が乏しくとも持っているし、僕だからこそできる支援もあると信じているし、ゴタゴタ言う前にはまずはやってみようと思っています。

取材・文 浪花朱音
2023.06.28 オンライン通話にてインタビュー

濱田織人(はまだ・おりと)

ベーシスト、音楽プロデューサー、クリエイティブディレクター、アトリエリスタ。武蔵野美術大学非常勤講師。スタジオミュージシャンとして活動しながら、作編曲、作詞、プロデュースと活動。2017年クリエイティブブティック創業後、芸術教育などにも力を入れ始め、NPO運営にも携わる。プライベートでは、裏千家茶道家としても活動。
https://www.instagram.com/oritosroom/

フードカルチャー雑誌RiCE.pressにて「一期一食」連載中
https://www.rice.press/?wr=7685


ライター|浪花朱音(なにわ・あかね)

1992年鳥取県生まれ。京都の編集プロダクションにて書籍や雑誌、フリーペーパーなどさまざまな媒体の編集・執筆に携わる。退職後は書店で働く傍らフリーランスの編集者・ライターとして独立。約3年のポーランド滞在を経て、2020年より滋賀県大津市在住。