(2014.02.05公開)
札幌に生まれ、22歳のとき日高の牧場へ嫁いだ大井恵子さんは、仕事と子育てをひと段落させたのち、再び自分がわくわくできる生き方を求めて京都造形芸術大学通信教育部陶芸コースに入学した。そして卒業後は現代芸術家であり母でもある門馬よ宇子さんの創設した「ギャラリー門馬」を受け継いでいる。北海道の季節の移ろいを捉えながら自分でも陶芸作品を作り、現在ギャラリストとして若手アーティストを支える立場にいる大井さんは、アートの世界とどのように関わろうとしているのだろうか。
——大井さんが芸術に興味を持つようになったのは、いつからなのですか。
もともと母親の影響で小さい頃から絵画教室に通っていたんです。私はふたり姉妹なのですが、姉はそのまま美術学校に入学するほど絵の才能があった。一方で私は絵を描くのも好きだったけど、実際には隣の家の男の子とわんぱく遊びをする時間のほうが楽しかったですね。
特に芸術と関わりを持つこともなく、22歳で北海道の日高にある浦河という町の牧場へ嫁に行きました。馬の世話や従業員のみなさんへの食事作りで、朝から晩まで働いていたんです。確かにしんどい毎日ではありましたが、子どもを育てるにはいい環境だったと思います。
その後、主人の仕事の関係で、再び生まれ育った札幌に帰ってきました。戻ってきたら母親が「現代美術家・門馬よ宇子」として自分が昔から好きだった表現を現代アートという分野で開花させていた。その姿を目の当たりにして、びっくりしましてね(笑)。当時、彼女は70歳を過ぎていましたから。
私自身はそれまで家業と子育てで精一杯で、芸術に対する先入観も偏見も一切なかった。でも、札幌に戻ってきたときに、水を得た魚のような母親の姿を見て、ああいいな、私も何かやってみたいなと考えるようになったんです。
——「50歳を過ぎてアートに関わる」というのが、母親・よ宇子さんとの共通点なんですね。大井さんは1999年、京都造形芸術大学通信教育部陶芸コースへ入学されました。
何しろ芸術系の大学に通うのが初めてだったので、キャンパス内で制作をしたり、イベントを企画する行動力のある若い学生たちを見ていたりするのがすごく刺激的で、新鮮に感じたんですね。道路の隅でリンゴに火を着けて写真を撮っていたり、校内に巨大な造形物を作って目を輝かせていたり……。もちろん彼らとのギャップを感じ、それに悩むことはありましたが、飛行機を使って北海道から京都に向かうときはうれしい気持ちでいっぱいでした。幼少時代、外で男の子たちと泥んこになって遊んでいたときの土の気持ちよさが忘れられなくて、長い年月を経て陶芸の道に結びついたのかもしれません。
こんなに年齢を重ねてから入学するなんて不思議に思われるかもしれませんが、結婚して子育てをして、子どもたちの成長を見届け終えたのが、たまたま50歳を過ぎた頃だったというだけなんです。節目を過ぎて、これから私が生き生きとしていられる場所を考えた先に、母親が通ってきたアートの世界が見えた。 これから京都に通わなくなったとしても、大学内で見たようなみずみずしい表現をしている人たちのそばで一緒に活動してみたい、この札幌という地域でできる限りの応援をしてみたいと思うようになったんです。
——そうして大学卒業後、母親の門馬よ宇子さんが創設・運営されていた「ギャラリー門馬」に積極的に関わるようになられたのですね。
ギャラリーがあるのは、札幌の中でも閑静な住宅街の旭ヶ丘というところです。もともとここは両親が住居用に建てた民家。まず母親が、若いアーティストのために場所を提供したいという思いから「スペースM」というアートスペースを作り、それから少しずつ改装を経て「ギャラリー門馬」と別館「ANNEX」が生まれました。建物の外観は住んでいた頃のまま、ほとんど変わっていないんですよ。だから本当に住居と思われることもあります(笑)。大学を卒業してから2007年に母親が亡くなるまで、私はギャラリー門馬のサポートとして携わっていました。
——ホームページで、設計を担当された建築家・赤坂真一郎さん※が「ここは我々が普段過ごしている『環境を人に合わせる』空間ではなく、『環境(作品)に人が合わせる(影響される)』空間なのである」という言葉を寄せておられますね。もう少し具体的に教えていただけますか。
※北海道を拠点に活動する建築家。アカサカシンイチロウアトリエ主宰。
例えばANNEXは展示空間としても少し変わっていて、建物自体が筒抜けになっているんです。それに、冷暖房の装置を備えていない。だから基本的に4月から10月までしかオープンしていないんです。作家によってはそういう条件をわかっておられるので、どうしても冬に展示をしたいという人には「本当に極寒ですよ。覚悟がいるよ」と説明した上で、提供しています。また、少しの光の中で作品を見せたいという人には、あからさまに照明を点けたり消したりするのではなく、あえて夕方から夜にかけてオープンさせることを提案したりしました。季節ごと・時間ごとにいろいろな変化を見せるギャラリー門馬の景色に向き合ってもらいたくて。
——なるほど。そういうことがつまり「環境に人が合わせている」空間になっていると。
そうですね。赤坂さんからは「この筒は都市住人が自然に接する前に通るべき精神浄化装置です」という言葉もいただきました。ここは札幌でも中心にあたり、市街地から車で15分もあれば辿り着くんです。だけどこんなふうに自然が残っている。入り口に入ったとたん筒抜けの先に向かいの景色が見えて「ああ、気持ちいい」という声が自然と漏れるんですよね。都会の人たちが近くでふとアートを感じながら一息できるという環境は、うちならではじゃないかな。都市にも、自然にも向き合うことができる。
札幌に限らず、北海道の人たちはみな、冬の寒さや厳しさによって自分の感情をコントロールしながら生きてゆかなければならないんです。北海道に住んでいたり、北海道で制作したりするアーティストにとっても、それは同じ。もちろん、コントロールが思わぬ方向にいき、感情を爆発させたものが作品になる場合だってあります。だからそのぶん、冬の景色の美しさをよく知っている。冬といえば何の色も、音も、匂いもなくなってしまいますから。そんな毎日の中で、独特の感覚が研ぎ澄まされてゆくんだと思います。雪とともにある緊張感と、春が訪れることの安堵感は雪国ならではのものと言えますね。
――2005年夏にギャラリー門馬で開催されたという『親娘3人展』は、大井さんにとってどのような意味があったのでしょうか。
母親が、姉と私に「やろうよ」と声をかけてくれたのが、この展覧会のきっかけでした。母親はインスタレーションを、姉は絵画を、私は陶芸を、三者三様に並べました。私はふたりに物の見せ方を教わったという感じですね。卒業制作で大量に作っていたお皿をANNEXの床に並べました。今でも思い出に残っている3人展ですが、自分自身は卒業制作をここに出展したというのが大きいんです。当時、ギャラリー門馬の庭にあった草木をわざわざ北海道から京都まで持って行って、石膏取りをして。60センチメートルくらいの大きなお皿も作りましたから。本当は京都の紅葉のほうがよっぽど綺麗なのですが、私にとってはいつもギャラリーで庭掃除をしている風景にある、虫が喰ったような葉っぱや木片のほうが魅力的だった。今でもその素材選びに、どういう意味があったのかはわからないのですが……。とにかくその作品を誰かに認めてもらえたということが、少しずつ自信になっていったんです。
——北海道で暮らしてきた大井さんの人生の時間や家族そのものを投影している作品なのかもしれませんね。母親としてのよ宇子さんと、現代美術家としてのよ宇子さん、ギャラリストとしてのよ宇子さんを、どのように見ておられますか。
私たちを育てていた頃の母親は、厳しさを持った人でした。でも私が高校を卒業してからは、比較的自由に行動や生き方を見守ってくれていました。美術家としては、亡くなるその日まで、自分の作品、生活、身なりも含めてすべてが「アートしなければならない」という使命に燃えていた人でしたね。私にとって門馬よ宇子という人間そのものがすごく偉大な存在だったので、プレッシャーに感じていた部分も正直あります。しかし私自身も50歳を過ぎてから芸術に目覚めた人間なので、やらなければならないことはやると覚悟し、わからないことはわからないとはっきりさせようと思ったんです。みんなに教えてもらわなければ、私はできないですから。
母親が生前に企画した『FIXMIXMAX!』(2007年)という展覧会があります。これは、札幌市民が実行委員会となって催した「地域から世界へ」をテーマにした現代芸術展でした。企画を考えていたとき彼女は療養中で、実は私がこの準備にほとんど参加できないくらい身の世話を欲していたのですが、それでも小さな種を蒔くことに成功した。時を経て、当時参加したアーティストたちが今も札幌でたくさん活躍をしているんです。また、門馬よ宇子自身が札幌での国際展を強く夢みていたこともあり、2014年に開催される札幌国際芸術祭はギャラリーとしても、私自身もすごく楽しみにしています。それに今後は、京都造形芸術大学時代に生まれた交友関係を、道内の作家ともつないでみたいです。北海道だけで留まらず、土地と土地で人をつなげてゆきたいですね。
——ギャラリー門馬のオーナーとして、大井さんのこれからの目標を教えてください。
おかげさまで体力はあるほうなのですが、頭が大変です。パソコンに向かって難しい書類をたくさん書かなければいけない。ギャラリストというのは本来、作家の制作をスムーズに進行させる立場でなければならないのですが、私の場合は「ちょっとこの操作を教えて」とか「手伝って」とか、かえって邪魔しているかもしれません(苦笑)。でも、そんなふうに若い作家仲間にたくさん手伝ってもらってこそ、今後の私があります。全てのところで出遅れている私ですが、世代を超える想像力のすごさと楽しさを伝えてゆくことをモットーに、体力が続く限りこの仕事に携わりたいですね。
インタビュー、文 : 山脇益美
2013年11月13日 電話にて取材
大井恵子(おおい・けいこ)
1946年札幌生まれ。ギャラリー門馬オーナー。50歳で京都造形芸術大学通信教育部芸術学部陶芸コースに入学。2003年、同校を卒業し卒業作品選抜展(東京青山スパイラルガーデン)に選ばれる。卒業後、母親の美術家・門馬よ宇子が開設したギャラリー門馬、ギャラリー門馬ANNEX(札幌旭が丘)を引き継ぐ。主な企画に「京都現代アート展」(2007年〜2013年)、「FIXMIXMAX!アワード展」(2007年)、「幻影を求めて」(2012年)、「くろがねと空間展」(2013年)など多数。ANNEXでは若手アーティストを主に企画している。
http://www.g-monma.com
山脇益美(やまわき・ますみ)
1989年京都府南丹市生まれ。2012年京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース卒業。今までのおもな活動に京都芸術センター通信『明倫art』ダンスレビュー、京都国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」WEB特集ページ、NPO法人BEPPU PROJECT「混浴温泉世界」、「国東半島アートプロジェクト」運営補助、詩集制作など。