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アネモメトリ -風の手帖-

風を知るひと 自分の仕事は自分でつくる。日本全国に見る情熱ある開拓者を探して。

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#14

“野良の芸術家”として飯山に生きる
― 小島富司/小嶋冨五郎

(2014.01.05公開)

小島富司さんは、小学校の校長を定年退職後、10代から抱き続けていた「絵を描きたい」という夢を叶えるために京都造形芸術大学大学院(通信教育)芸術環境研究領域に入学した。今は地域の民間伝承「飯山の七不思議」を現代の方法で引き継ぐべく紙芝居の見せ語りを続け、“教え”と“学び”を繰り返す人生を送る。2013年11月に開校したばかりの現代版寺子屋塾「無尽蔵」で、彼は何を伝えようとしているのか。

——小島さんは、生まれも育ちも飯山という地域なのですね。その自然環境について教えてください。

飯山は神奈川県の厚木市にあります。ひとことで言えば、里山の穏やかな雰囲気を保ちながら、東京の新宿まで1時間かからずに移動できる、という利便性を併せ持つ土地ですね。昭和30〜40年代、日本の高度経済成長期に高速道路が整備されたんです。町の開発という名目で、僕たちの住んでいた飯山周辺の大きな山が採石に利用された。山の石を砂利にして、高速道路や団地の地盤に敷き詰めたんです。現在、山が取り払われた場所は3ヶ所ほどあります。のどかな山の風景が、僕の10代だった頃にどんどん開発されていったことが、自分の中ではとても大きく影響を与えたできごとだったと感じます。

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里山と田園風景から「霊峰大山」を望む

——どのような幼少期から青年期を過ごしてきたのですか。

僕たちはいわゆる団塊の世代。戦後の貧しい時代から日本が豊かに成長していく時代に生き、常に競争を強いられてきました。しかし、小学生の頃の遊びは、自然の中で創造性あふれていました。川に行って鮎を針で引っ掛けてみたり、野鳥のメジロを捕まえたり。メジロの場合は、目の前におとりカゴの中に鳥もちを巻いた枝を用意してね。
あとは、漫画本ですね。昭和30年代初め『赤胴鈴之助』という、1冊100円にも満たない単行本だけれども、父親が厚木市内の本屋さんから月に一度買ってきてくれていたんです。一気に読み終えると友達に貸して、自分の手元に返ってくる頃には、ボロボロに痛んでいる(笑)。それでも当時のものを全28巻、今でも大事にしているんですよ。漫画を読みながら絵を描くという楽しさやわくわくとした体験は、寺子屋塾「無尽蔵」の構想にもおおいに関わってきます。

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ラジオドラマもあったという漫画本『赤胴鈴之助』

——寺子屋塾では、小島さんが少年時代に経験した感覚を、現在の子どもたちにどういうふうに伝えようとしているのですか。

寺子屋塾「無尽蔵」は、普通の学習塾とはひと味違う、「生きる知恵」と「創造する力」を飯山の自然の中で体験しながら学んでゆくスタイルです。「無尽蔵」とは、大学生のときに観た益子焼の陶芸家・濱田庄司さんによる揮毫(きごう)の言葉。自分の中で心に残り続けていた日本語であり、子どもたちの夢や可能性は無尽蔵にある、という意味を込めています。
現代の子どもたちには、のどかな自然の風景を、目で見るだけでなく少しだけ刺激を与えることが大事だと思うんです。僕の子どもの頃にしていた遊びと同じことをするのではなく、その遊びの感覚を伝えるきっかけ作り、ということですね。今の時代、山に行ってメジロを捕るといっても無理がありますから。

——確かに、今の時代は、インターネットで検索をかけたら、いくらでもメジロの画像は出てきますね。見ることは簡単だけれども、虫でも植物でも、それを実際に「触る」こと自体が貴重なのかなと思いました。“体験”や“遊び”という言葉が、そこに繋がってくる。

教育現場に長年携わり、定年退職後の2年間は2013年の春まで厚木市内にある全校児童30人ほどの小さな私立小学校で、4年生の担任をしていました。小高い丘の林の中に建つ校舎で、教室のそばにはウッドデッキがあるんです。秋から冬の季節に、窓の近くに飴台を作り、輪切りのミカンやリンゴを置いておくと、そこにメジロがやってくる。子どもたちにとって、それはすごく感動する風景でした。僕の時代は自分の手のひらにメジロやヒヨドリを掴んでいた。その温かさと、何ともいえない可愛さは忘れることができないでいます。今の子どもたちには、そういう体験はなかなか難しいのだけれど、自分たちの生活のほんの1メートル先にある自然の営みに近づき、一瞬でも観察の喜びを感じてもらえた気がします。

「無尽蔵」開校のようす(2013年11月)

「無尽蔵」開校時のようす(2013年11月)

飯山の七不思議の一つ「河童伝説」を語る 

飯山の七不思議の一つ「河童伝説」を語る
写真提供:(株)タウンニュース社(2点とも)

——小島さんにとって“教師”として教えることには、どういう魅力があるのでしょうか。

やっぱり、ひとりの人間が“教師”という立場で、子どもたちに夢や希望を持って自分の道を拓いてゆけるよう、僕自身の体験や生き方を「語る」ことができる部分かな。

——定年退職後、京都造形芸術大学の通信教育部に入学されましたね。「教える」立場から「学ぶ」立場に移行したことによって、ものの考え方や感じ方に変化はありましたか。

おおいにあります。僕の場合は特に5年、10年をかけた変化ではなく、京都造形芸術大学の2年間が大きかったんです。世の中は60歳を過ぎると定年退職があります。残りの人生を、まだまだ磨きたいと思った。やり残したことがたくさんあったんです。絵も描きたかったし、陶芸もやりたかった。その思いは40年以上前から抱き続けていたものでした。
僕の今までのものの考え方というのは、日々の教育課題に取り組みながら、教職を全うするということに尽きました。しかし、そういう枠から外れたところにある、ものづくり、民俗学的な伝承話、地域の人びとの暮らし、お寺や神社にある文化財、造形物。今までそれなりに見てはいたものの、こんなに思いを寄せるようになったのは、あの2年間があったからです。ずっと昔にできた建物が、なぜ私たちの身近なところにあるのか。そんなドキドキを感じるきっかけを京都造形芸術大学で教えていただきましたね。自分の求める先に、新しい発見や課題がいつのまにか整理されてゆく。それが快感でね。教師として教えるという立場から学ぶという方向に変わって、心が解放されたんです。松井利夫先生に「小島さんのこれからの生き方は“野良の芸術家”だね」と名付けていただいたことも、その後の方向性において強い自信になってゆきました。

明治初期、飯山庫裏橋を旅したF・ベアトによる1枚の写真

明治初期、飯山庫裏橋を旅したF・ベアトの写真

創作紙芝居「飯山ものがたり」の一コマから

創作紙芝居「飯山ものがたり」の一コマから

——修士論文の研究テーマだったという「飯山の七不思議」について教えてください。

実は校長を退職する直前に、地区研究会の図書館部会に参加する機会がありました。そこで紙芝居を披露したんです。みんなそれなりに喜んでくれたんだけれど、今度は注文をつけられてね(笑)。京都造形芸術大学に入学するときにも、松井先生に「この紙芝居にはパフォーマンスが足りない」「もっと踊ったほうがいい」と言っていただいて。それが嬉しくてたまらなかった。大学時代は、そのまま「飯山の七不思議」の紙芝居を修士論文の研究素材にしたんです。紙芝居の絵についてはもちろん“見せ語り”の部分——見せて、語るという手法を、プロの紙芝居師のところまで行って学びました。
飯山の七不思議のひとつに「白龍伝説」というのがあります。飯山白山の頂上には池があるのですが、そこの水はどんなときにも枯れず、満水になっているんです。かつてよりその池には白蛇が棲んでいると言われていた。それがあるときに白蛇から白龍だと言われるようになり、その池は「白龍の水飲み場」だと語られるようになったんです。水が不足する夏の暑い時期、その池の水をきれいに空っぽにすると、白龍の怒りを買って、にわかに雨が降り始めるという……そんな話が雨乞いの神事として伝承されているんです。いつから語られているのかわからないお話を伝承しながら生きている、というのがひとつ、“野良の芸術家”なのかと思います。

——なるほど。その白龍伝説を、現在にあるべき姿として紙芝居や神輿という形で伝えておられるんですね。

飯山では桜まつりと秋まつりがあり、私たちは和太鼓のグループと一緒に出演をしているんです。和紙で20メートルの白龍の姿を作り、それを担ぎながら舞います。それはもう、迫力のある立派なものですよ。とは言え、僕たちが白龍を担ぎ始めてまだ12年なんです。「七不思議」そのものは伝承され続けていたけれども、それまでは誰もそんなことを形にはしていなかった。祭りという普遍性のあるものでも、その時代背景や、人びとの生活や風土の中で刻々と変わってゆく。大事なことは、その時代時代でいかに“忘れ去られたもの”をどのように想像するかという部分ではないかと思います。先人は、自分たちの力では及ばない自然の驚きや怖さと向き合って、共存して生きてきた。どうにもならないときは神に祈ったり、何かを捧げたり。すがるときにも、実りの喜びを感謝するときにも、有形無形問わず表現を続けていたんですよね。現代人はその細部を忘れてしまっている。そこに「気づき」が必要なのだと教えていただいたことで、“野良の芸術家”としての使命があると実感しています。そう考えたとき、飯山ではあらゆる自然をうまく活かしながら何でもできそうな気がするんです。

地域の伝統行事「飯山白龍」が小鮎川で舞う

地域の伝統行事「飯山白龍」が小鮎川で舞う

——京都造形芸術大学で学んだ経験は、飯山の「無尽蔵」でどのように生かされるのでしょうか。

ひとつ挙げると、教育現場において「教える」というよりも「一緒に学ぼう」という姿勢ですね。飯山に限らず、いろいろな地域の中で転がっている課題に加え、想像力をかきたてられる不思議なものや美しいものを、一緒に子どもたちと発見し、楽しんでみたいと思ったんです。それを寺子屋塾「無尽蔵」で自分なりに5つの科目(昔話文化科・生活世の中科・生活ことば科・造形ものづくり科・自然生きもの科)に整理した。「生きる知恵」とか「創造する力」というものは、いわゆる本物の驚きとか感動という部分ですね。自分の力で新しく何かを創り上げる、ということなんです。
僕は所詮、真面目な教師なんです。この年齢になって自分を分析するとね。一見すると、大胆なパフォーマンスなんて自分自身ではできない。一方で、真面目の中に遊びがないと退屈する。だからこそ“野良の芸術家”としての活動は「小嶋冨五郎」という名前で行っています。これは、わが家の墓石に刻まれていた僕のご先祖さまの名前。学生時代に尊敬していた陶芸家の方が名前をふたつ持っていたことに憧れて、どちらともを充足させた生き方をしたいと思うようになりました。
老後というものは、みんなそれなりに考えて日々を過ごしてゆくわけだけれど、僕の場合、どういうわけだか創作のエネルギーがどんどん出てくるんですね。ありがたいことに「無尽蔵」に入りたい、と言ってくれる仲間が徐々に増えつつあります。対象は子どもだけではありません。地域の大人まで含めた「学び」の場所なんです。春夏秋冬の季節行事や日本の伝統文化を大切にできる寺子屋にしてゆきたいですね。

「掘り立てのさつま芋は紅色が綺麗なんです」

「美味しい」感じをクレパスの色で表現する

——これから挑戦してみたいことはありますか。

現在は、地域のミニコミ誌に“野良の芸術家”としてエッセイを書いてみたり、『農民文学』という雑誌の表紙のクレパス画を担当したりしています。いずれ本にまとめてみたいし、原画展も行ってみたい。高校時代や大学時代のときに抱いていた夢が、この年齢になってようやく、ひとつひとつ叶えられているような気がしているんです。まだまだ、やりたいことの途中ですね。

農民文学

『農民文学』表紙

インタビュー、文 : 山脇益美
2013年10月11日 電話にて取材

プロフィール

桜まつりで奉納神事「飯山白龍の舞」に参加

小島富司/小嶋冨五郎(こじま・とみじ/こじま・とみごろう)
1947年神奈川県厚木市飯山生まれ。神奈川県の公立小学校校長を経て、現在大学・小学校講師。2008年、京都造形芸術大学大学院(通信教育)芸術環境研究領域修了。「飯山の七不思議」をテーマに、紙芝居の見せ語りや祭事での白龍神輿を行う「飯山白龍の舞保存会」を主宰。月刊紙『市民かわら版』にコラム「野良の芸術」を書き、季刊誌『農民文学』の表紙絵・挿絵を担当する。2013年11月、飯山の民家を改装して「造形活動」「体験活動」「表現活動」を主に置く寺子屋塾「無尽蔵」を開校した。

山脇益美(やまわき・ますみ)
1989年京都府南丹市生まれ。2012年京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース卒業。今までのおもな活動に京都芸術センター通信『明倫art』ダンスレビュー、京都国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」WEB特集ページ、NPO法人BEPPU PROJECT「混浴温泉世界」「国東半島アートプロジェクト」運営補助、詩集制作など。