(2013.09.05公開)
小さい頃から本を読むのが好きだったという友川綾子さんは、銀座の画廊やアートセンター3331 Arts Chiyodaでの業務を通じてアートの現場を学び、2010年にフリーランスのアートライター/編集者の道へと進んだ。現在は文筆業の傍ら、社会貢献の場所として横浜・寿町のドヤ街でアートプロジェクトにも関わる彼女は、観光地とも住宅街とも違う「クリエイティブの可能性を感じる」まちに寄り添いながら、どんな瞬間に出会い、外の世界へ発信しているのだろうか。
——現在はアートライターとして活動されていますが、それ以前に文章を雑誌やWEBサイトに寄稿していたことはあるのですか。
仕事として書くことはほとんどありませんでした。ちょこちょことブログなどをやっていたぐらいです。大学で芸術学を学んでいる過程で、「目で見て感じるもの(アート)を文で伝える技術」を意識するようになり、数多くの課題レポートをこなすことで素養を培うことができたと感じています。今の仕事を通じて日々痛感するのは、例え150字程度の紹介文であっても書き手の知識や経験値が滲み出てくるものだということです。展覧会でも、舞台でも、人であっても、その対象を深く理解することで、よりよく伝えることができるようになる。ですから、もっといい書き手になるには人として豊かに生きることが条件だと思っています。作品や舞台をたくさん観に行くとか、アート関係者だけではなく、他業種のいろんな価値観の人の話を聞くとか、自分自身の幅を広げることで、「伝える」ためのメディア力を鍛えていけるのではと。
——そう考えると、3331 Arts Chiyodaの立ち上げスタッフとして広報業務をされていた経験も、文筆業に結びついているのですね。当時のことを、教えていただけますか。
3331 Arts Chiyoda(以下3331)は、2010年にオープンした東京都千代田区にある複合文化芸術施設です。
ここでの仕事を経験しなかったら、以前からやりたかったフリーのアートライターに挑戦してみようとは思えなかったのではないかな。そのくらい多くのことを学ばせていただいた職場であり、エキサイティングなアートの現場でした。ひとりで何役もこなさなくてはならないハードな業務だったのですが、自分が動くことで社会に波紋を投げ掛けることができる、何かを変えていくことができるんだという感覚を得られたのは貴重な経験でした。3331は、今でこそ関東圏のみならず、日本全国から多くの人が訪れる施設になりましたが、それはひとりひとりのスタッフや関係者が、丁寧に人脈をつくり、数多くのプログラムを実施してきたからこそだと思います。立ち上げ当初のスタッフは、私をはじめみんな手探り状態でしたが、業務を楽しんで、思いっきり本気になれたのは、3331のようなスペースが心の底から必要だと思っていたからです。アートに関わる人間として、自分たちの居場所/未来を自分たちでつくるという使命感が根底にあった。私が3331に在籍していたのは、実はたった7ヶ月間だったのですが、毎日どんどん成長させてもらえた現場でした。
——その7ヶ月間が後に影響を与えてくれているわけですね。印象に残っているできごとはありますか。
3331はオープン当初から美術専門誌をはじめ『BRUTUS』、『メトロミニッツ』、『OZマガジン』などの人気の雑誌に取り上げてもらいましたし、新聞・テレビ・ラジオも、ほとんどの主要なメディアが取材してくれていました。それはアートやデザインなどのクリエイティブ業界の人びとが3331という施設の面白さや意義にいち早く気がついてくれたからなんです。一方で施設の所在する外神田地域の人びとから理解を得るには時間がかかるのではという心配がありました。3331の3階に入居するデザインオフィスでは、デザイナーさんが徹夜して仕事をしているのですが、地域の人から見ると、「あそこの電気はいつもつきっぱなしだけれど、何をしているの?」って。広報スタッフとして、長い目でみて施設として育ってゆくにはまちのいろんな人から愛されなければいけないと痛感していました。そこで退職後に3331 で行われていた「Insideout Project」に参加することにしました。このプロジェクトは日本全国に点在するアートプロジェクトのネットワークを構築することがミッションだったのですが、まずは自分たちの拠点である外神田地域を知りたいということで、運良く千代田区観光協会の協力を得ることもでき、周辺地域の地図づくりをやることにしていたんです。秋葉原と聞けば、どういうまちかおおよそのイメージを持てますが、そこから徒歩10分先にある3331の最寄り駅、銀座線末広町周辺というと、多くの人がその界隈のイメージを持っていなかった。ですので、地域の再発見という意味も含めて、20名近い大学生や社会人のインターンと一緒に周辺一帯を練り歩いて、何も知らないまっさらな目で、若い感性の彼らが面白かったと思うお店やスポットをピックアップして掲載するという地図をつくりました。
プロジェクトスタッフやインターンは、リサーチのためにお店を訪ね、原稿を書くときに訪ね、掲載許可や情報確認のために訪ね、地図が完成したら「ありがとう」と、地図を届けに訪ねと、同じお店に何度も足繁く通うわけです。そうするうちに、地域のお店の方々に顔を覚えてもらえ、3331という施設の名前が浸透して、身近に感じてもらえるきっかけにもなれたと思うんです。「地図づくり」をするプロセスで、3331とまちの人びととの距離がぐっと近づけました。
一方で、自分たちの感覚だけで掲載するお店を決めていきましたから、地域からの反発もありました。そのレスポンスを受けて、私たちがまだ知らなかった地域の名店を地元町会長に教えてもらい、第二版もつくりました。こうした経験を通じて、「地図をつくることは、具体的に地域と人とのネットワークをつくることでもあり、その地域を独自視点で編集する行為なんだ」と、気がつきました。その経験を生かし、昨年は横浜の石川町地域で「ひらがな商店街と旅しよう」という合同ワークショップ企画で、独自の視点で地域の地図をつくってみるというワークショップを実施しました。地図をつくると、クリエイティブと地域の接点が生まれる。その面白さに、今ちょっとはまっています(笑)。
——現在、プロボノ活動(※)として参加されている横浜・寿町のアートプロジェクトについて教えてください。
※ 別に本業を持って、その能力をボランティアとして提供しながら、そこで新たに得た技術や人脈を本業に還元させること
寿町は、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並んで日本三大ドヤ街といわれています。ドヤとは日雇い労働者のための簡易宿泊所のこと。かつてはここで日銭を稼ぎ、ドヤで眠るという労働者が何千人も、溢れるほど暮らしていたんです。
横浜の人たちは「寿町」と聞くと、今でも荒くれのまちで、稼いだ金で飲んで、賭博をしてという……30年前と同じように、怖い地域というネガティブなイメージを持っている人がほとんどです。近隣地域で育った人は、小さい頃に親から「あそこには行っちゃだめ」と教えられてきた。それは正しい教えだったと思うのですが、まちの様子は年々変わっていっているんですね。ドヤの住人が高齢になってきたこともあり、「福祉のまち」へと移行してきています。ここ2〜3年で、まちの様子は本当に変わりました。現在、住んでいる人の大半は65歳以上の独身男性です。介護が必要な人も多いし、寝たきりの人だっている。人生の終わりをそこで迎えるという人たちばかりです。我々はアート活動を担う団体ではありますが、活動を通じ、「ここ最近の寿町の様子」を知ってもらうきっかけになればいいなと。福祉に発展している今、新たな課題もあることを知ってもらいたいですね。私が参加している寿オルタナティブ・ネットワーク(運営団体)は、基本的に社会人の有志で集まっています。行政や企業が簡単に手を出せないような地域だからこそ、発信力のある面白いことができるのではないかと考えています。
——そんな特徴を持つ寿町からアートを発信してゆくことで、どういう反応が得られるのですか。
アートファンを対象としてプロジェクトを展開すると、反応が読めてしまうところがありますよね。アート業界の人が提示して、アートファンが受容するということを繰り返していると、どうしても「こういうものはこういうふうにして見るものだ」というようなセオリーができあがってしまう。それを寿町のおじさんたちは気持ちよく壊してくれるんです。アーティストに過剰に気を遣うことなく、「こんなのわからん」「俺にはこれがアートだってわかるぜ!」と、好き勝手に言いたい放題(笑)。お世辞で「良かった」と言われることはない。そのダイレクトさが面白いです。こういう場所でこそ、アートがもっと生き生きしてくるし、揉まれますよね。
去年、アーティストの大橋範子さんが、寿町の広場でパフォーマンスをやりました。午前中のパフォーマンスでしたが、広場の隣には屋台が出ていて、数人のおじさんたちがお酒を飲んでいるんですね。彼女が始めたパフォーマンスを、お酒を飲みながら見ていたおじさんたちは、ヤジを飛ばしたり、上演中に彼女の肩を抱いて写真を撮ったりするんです(笑)。すると突然、大橋さんが「うぇ〜ん!」と泣き出しました。「何をやっても表現にならない」って。寿町のおじさんたちは、表現以前に表現を発露させて生きているんです。生き方がすでにアートっていうような、そんな人たちの前で、頭を使って練り上げたような表現をしても弱いですよね。彼女もアーティストとしてそれをヒリヒリと感じ取っていたんだと思うんです。面白かったのは、彼女が泣いた瞬間、それまでワイワイと騒いでいたおじさんたちが、ぴたっと静まったこと。泣くことで彼女の本気さが伝わり、おじさんたちも「真剣に見なくては」という態度に変わりました。そうしたら大橋さん、しれっとパフォーマンスを再開したんです(笑)。これは面白い瞬間に立ち会ったと思いました。大橋さんが泣いたことも、寿町のおじさんたちの反応も、全てが舞台の上のできごとのようでした。寿町でアートをやる躍動感はこういう一瞬にある気がするんです。
——友川さんは今後、寿町での活動とライターの活動、それぞれどういう展望をお持ちですか。
寿町は、アーティストが今までと違ったものの考え方をできる場所だという可能性を感じています。日本の社会課題が集積している一方で、クリエイティブの自由度が高いまち。福祉や生活保護などのいわゆるセイフティーネット制度を知ることは、その国をよりダイレクトに知ることになります。寿町に存在する社会課題に触れることで、日本という国を短期間に理解することができると思うんですね。ですから、近い将来、社会的課題に関心の高いアーティストを海外から招聘するレジデンスを提案してみたいです。いろんな国のいろんな考え方を持つ人が集まって、クリエイティブなプラットフォームにしていけたら。それを私は勝手に寿町アートダイバーシティー構想と言っていますが(笑)。
ライターや編集者としては、これからまだまだスキルを磨きたいですね。最近、『美術手帖×デザインの現場JOBコラム ART&DESIGNの仕事』という、アートの現場を支える裏方さんたちをインタビューするコラムを執筆しています。この連載で取り上げるのは、10年先も業界を担ってゆく人たち。私にとってはどこかで「仲間」という意識がありますし、アートの現場を支える人たちが今、何をどういうふうに考えて日々の仕事を進めているのか、それを文章として残しておくことは、将来きっと役に立つだろうと思います。普段は裏方に徹している取材相手からも、「意義がある」と喜んでもらえますから。今はさまざまな地域やまちを舞台にアートを展開することが増えていますよね。そうしたアートの現場でいま何が起きているか。その面白さを伝えていきたいです。
インタビュー、文 : 山脇益美
2013年7月25日 skypeにて取材
プロフィール
© Kyoko Kawano
友川綾子(ともかわ・あやこ)
1979年生まれ。銀座の画廊などに勤務する傍ら、京都造形芸術大学通信教育部で芸術学を学ぶ。3331 Arts Chiyodaの立ち上げスタッフとして広報業務に携わり、退職後はフリーランスのアートライター/編集に。アート関連のイベント企画・コーディネートも手がける。現在のおもな仕事に、横浜市芸術文化振興財団地域文化サポート事業ヨコハマアートサイト2013広報物制作、おもいやりライトプロジェクト、連載コラム『美術手帖×デザインの現場JOBコラム ART&DESIGNの仕事』。日本三大ドヤ街のひとつ寿町(横浜市)を舞台とするアートプロジェクト運営団体、寿オルタナティブ・ネットワークスタッフ。友川綾子WEBサイト http://www.ayatsumugi.net
山脇益美(やまわき・ますみ)
1989年京都府南丹市生まれ。2012年京都造形芸術大学クリエイティブ・ライティングコース卒業。今までのおもな活動に京都芸術センター通信『明倫art』ダンスレビュー、京都国際舞台芸術祭「KYOTO EXPERIMENT」WEB特集ページ、NPO法人BEPPU PROJECT「混浴温泉世界2012」「国東半島アートプロジェクト2012」運営補助、詩集制作など。