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#155

天正遣欧少年使節・千々石ミゲルの墓と思われる石碑
― 長崎県諫早市

長崎空港に降り立ち、連絡橋を渡ったたもとに「天正遣欧少年使節顕彰之像」があります。
天正年間、巡察師ヴァリニャーノ神父の計画で、伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4人の少年がローマに派遣されました。
使節団は1582年に長崎を出発し、数々の苦難を乗り越えて1585年にローマ到着。教皇グレゴリウス13世に謁見し、各地で豪華絢爛な西欧文化を体験しました。1590年、一行は8年半に及ぶ長旅を終えて長崎に帰着しました。
しかし当時日本では豊臣秀吉によってバテレン追放令が出され、キリスト教宣教師は国外退去を命じられていました。4人は宣教師となるべく正式にイエズス会に入会しましたが、その後それぞれに過酷な運命をたどります。
伊東マンショは小倉を拠点に九州各地で活動しましたが、長崎で病死しました。原マルチノはキリシタン追放令によってマカオに追放され、現地で亡くなりました。中浦ジュリアンは国内で潜伏しながら布教活動をしていましたが捕らえられ、長崎の西坂で殉教しました。
一方千々石ミゲルは、イエズス会を脱会して従兄弟である大村藩の大村喜前に仕え、名を清左衛門と称して妻帯しました。宣教師の記録でもミゲルは信仰を捨てたと記されています。彼は喜前に棄教を進言したとされ、その罪を被って大村領を追われ有馬領へ移りました。しかし有馬でも迫害を受け、今度は長崎へ逃れました。その後の消息は不明です。遣欧使節で唯一の棄教者として裏切り者呼ばわりされた彼についての史料はほとんどありませんでした。
ところが2003年、諫早市多良見町伊木力でミゲルの墓と推定される石碑が発見されました。ミゲルの子孫である浅田氏の意向で私的に過去2回の調査が試みられ、石碑の建立者がミゲルの子であり、表の戒名がミゲル夫妻のものであることからミゲルの墓にほぼ間違いないという見解に至りました。そして2017年に民間支援を受けて第3次の発掘調査が行われました。
その結果、大名級の墓壙が発掘され、副葬品としてカラフルな59個の玉と1枚のガラス片が出土されました。その玉はロザリオの玉であり、またガラス片は聖物入れの蓋に使われるもので、その透明度からヨーロッパ製のアルカリガラスであることが推測されました。すなわちこれは埋葬者がキリシタンであるという証ではないか、千々石ミゲルは実は棄教していなかったのではないかという思惑が広がり、一気に話題になりました。
果たして彼は激動の時代をどのような思いで生きたのでしょうか。第4次の調査が期待されています。

(山口美登志)

参考
諫早市 ぶらりいさはや 天正遣欧少年使節・千々石ミゲルの墓と思われる石碑http://www.city.isahaya.nagasaki.jp/post03/1441.html

「旅する長崎学」長崎学Web学会 千々石ミゲル墓所推定地 第3次発掘調査について(その1)~(その5)
https://tabinaga.jp/tanken/index.php?offset=2

天正遣欧少年使節顕彰之像(長崎空港)

天正遣欧少年使節顕彰之像(長崎空港)

千々石ミゲルの墓と思われる石碑(諫早市多良見町伊木力)

千々石ミゲルの墓と思われる石碑(諫早市多良見町伊木力)

石碑の説明板

石碑の説明板