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#287

「手作りこんにゃく 狭川商店」三国の歴史を語る90歳の店主
― 大阪府大阪市

阪急電鉄三国駅から続く三国商店街(サンティフルみくに)から脇道を少し歩くと「手作りこんにゃく 狭川(さがわ)商店」の黒い看板が目に入ります。
店主の狭川さんは今年で90歳になりますが、非常にお元気で現在も店内でこんにゃくを作り、販売をしています。大阪府下では唯一現存している手作りこんにゃく店です。「スーパーで売っているこんにゃくとは、味の染み方が違う」とのことです。

大正13年築(102年前)の狭川商店は入母屋作りの銅板張りです。「手作りこんにゃく」の黒い看板も狭川さんの手作りです。お隣の床屋も狭川商店と同じ作りで狭川さんの祖父の代から続いています。昔はこの通りも賑やかな商店街だったそうです。戦中には近くの「日本アルミ」工場を狙い爆撃があったそうですが、爆弾は北に逸れて狭川商店の一角は焼け残ったそうです

大正13年築(102年前)の狭川商店は入母屋造の銅板張りです。「手作りこんにゃく」の黒い看板も狭川さんの手作りです。お隣の床屋も狭川商店と同じ作りで狭川さんの祖父の代から続いています。昔はこの通りも賑やかな商店街だったそうです。戦中には近くの「日本アルミ」工場を狙い爆撃があったそうですが、爆弾は北に逸れて狭川商店の一角は焼け残ったそうです

愛用のこんにゃく練り機、ゆっくり練ることで気泡が入り、味が染みやすくなるそうです

愛用のこんにゃく練り機。ゆっくり練ることで気泡が入り、味が染みやすくなるそうです

狭川さんの祖父は大阪市堀江で130年程前、「西洋御料理 萬歳軒」を営んでいました。しかし、東淀川区と西淀川区が大阪市に編入された後に、北部(三国地区等)の産業活性化を進める動きがあり、昭和3年に西洋料理店を三国に移転したそうです。しかし、太平洋戦争末期に食料統制で食材が入手出来なくなり、統制外のこんにゃく販売に商売替えを行います。戦後もこんにゃく店をお父様から引き継ぎ3代にわたりこんにゃくの製造販売を行っています。柳宗悦らが関わった「三國荘」のこともお父様はよく語っていたそうです。

130年程前に狭川さんの祖父が営んでいた「西洋御料理 萬歳軒」の看板。RESTAURA「M」Tとなっているのも時代を感じさせます

130年程前に狭川さんの祖父が営んでいた「西洋御料理 萬歳軒」の看板。RESTAURA「M」Tとなっているのも時代を感じさせます

狭川さんは手作りこんにゃく店だけではなく、和凧の伝統的な作り方の研究にも情熱を注いでおり、「凧の会・風人」代表や「十八条村・蒲田村郷土史研究会」会員として地域の文化継承に貢献しています。
狭川さんの作る和凧には色鮮やかな絵柄や精緻な細工が施されており、海外からも研究者が狭川商店を訪れます。和凧制作は、単なる趣味にとどまらず、地域とのつながりを深める手段にもなっています。地元の祭りやイベントで自作の凧を披露し、子どもたちに凧揚げの楽しさを伝えたり、ワークショップを開催したりすることもあります。
狭川さんはいつも素敵な笑顔で店頭に立ち、商店街を歩く多くの人が狭川さんと挨拶を交わしています。これからも、こんにゃくを作り、和凧や地域の文化と歴史を語り続けることを願うばかりです。

狭川さんが編集した冊子で凧作りについて教えていただきました

狭川さんが編集した冊子で凧作りについて教えていただきました

狭川商店の斜め向かいには「三栄館」という芝居小屋がありました。旅回りの酒井一座で「酒井雲坊」と言う少年が演じていて、暇になると狭川商店の入り口で遊んでいたそうです。その少年が後の演歌歌手の村田英雄です。その後、昭和30年頃に映画館になり、アパードに変り現在は取り壊されています。近々、道路が拡幅されると聞きました

狭川商店の斜め向かいには「三栄館」という芝居小屋がありました。旅回りの酒井一座で「酒井雲坊」という少年が演じていて、暇になると狭川商店の入り口で遊んでいたそうです。その少年が後の演歌歌手の村田英雄です。その後、昭和30年頃に映画館になり、アパートに変わり現在は取り壊されています。近々、道路が拡幅されると聞きました

手作りこんにゃく 狭川商店
大阪府大阪市淀川区西三国3-1835

店頭では手作りこんにゃくを1枚150円で販売しています。お邪魔にならない程度の来店をお願いします。

(中野聡史)