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#281

岩国徴古館とドイツ芸術の家
― 山口県岩国市

山口県岩国市に岩国徴古館(いわくにちょうこかん)という床面積700平方メートル足らずの煉瓦造の博物館があります。この博物館の設立が決まったのは日独伊三国同盟が締結された1940年。太平洋戦争開戦翌年の1942年に着工、終戦直前の1945年3月に竣工しました。設計したのは早稲田大学大隈講堂や旧旭川市庁舎などの設計で知られる建築家、佐藤武夫。旧制中学時代を岩国で過ごした縁で設計を依頼されたようです。

岩国徴古館前景

岩国徴古館

芸術の家前景 Photo: Andreas Praefcke / CC BY 3.0

芸術の家
Photo: Andreas Praefcke / CC BY 3.0

ドイツのミュンヘンに芸術の家(Haus der Kunst)という10,000平方メートル以上ありそうな(床面積についての記載は探し出せませんでした)鉄筋コンクリート造の美術館があります。1937年の竣工時は、ドイツ芸術の家(Haus der Deutschen Kunst)と呼ばれており、有名な「退廃芸術展」の対極、ナチス推奨の芸術作品を展示した「大ドイツ芸術展」の会場にもなりました。設計したのはヒトラーお気に入りのパウル・ルードヴィヒ・トロースト(Paul Ludwig Troost)です。

岩国徴古館階段

岩国徴古館階段

芸術の家階段

芸術の家階段

さて、この2つの建築、大きさも構造も全く違いますが、何となく似ている印象を受けませんか。私は佐藤がドイツ芸術の家を手本にして岩国徴古館を建てたのではないかと推測しています。
佐藤は1941年に『ドイツの造形文化』という本を上梓しています。この本には、「ドイツ美術館」という訳語ではありますが、ドイツ芸術の家を正面から撮った写真が掲載されています。また、本文では、ここを会場とした「ドイツ建築工芸展覧会」について、細かく記しています。佐藤はドイツへの渡航経験はありませんが、ドイツ語ができたようですから、参照文献としてあげている雑誌 “Baugilde” の記事などから書き起こしたのではないかと思われます。展示室の描写などから、この雑誌には豊富な図版が掲載されていたことが想像されます。こうしたことから、佐藤はドイツ芸術の家の全体像をかなり正確に把握しており、それを基に岩国徴古館を設計したのではないかと考えました。

岩国徴古館天井

岩国徴古館天井

芸術の家天井

芸術の家天井

岩国徴古館について以前から気になっていたことがあります。それは佐藤がこの建築について書いたものを見つけられないことです。この時期の日本は戦況悪化により資材も人材も不足し、めぼしい建築はほとんど建てられていないので、この作品は建築史的にも貴重なものです。建設過程のさまざまな苦労なども含め、文才のあった佐藤にとってはネタの宝庫だったことでしょう。にもかかわらずこの作品に触れることがなかったのはなぜかと考えたとき思い至ったのが、ナチス精神を体現したとも言えるドイツ芸術の家のことでした。
ドイツは岩国徴古館の竣工から2ヵ月、日本は更にその3ヵ月後に敗戦の日を迎えます。
早稲田大学の教授をしていた佐藤は、戦後、自宅に設計の実務を行う場を設けました。大陸から引き揚げてきた教え子の職場とするためです。またこの時期、戦時中の制約から解き放たれた建築業界は、戦後復興の波に乗り活況を呈していたようです。
教え子たちの職場を守り、思う存分建築に打ち込みたかった佐藤は、ナチスドイツ建築に連なる岩国徴古館を建てたことに対する批判をおそれ、その存在を隠したかったのではないでしょうか。戦争記録画を描いたことで画壇から集中砲火を浴び、日本を去った藤田嗣治のことも佐藤の頭にあったかもしれません。

さて、ここまで読んでくださったみなさんはどのような感想を持たれたでしょうか。
推測が多く、もどかしさを感じる方もいるかもしれません。しかし佐藤が亡くなった今となっては、明確な答えを得るのはほぼ不可能です。
岩国徴古館に興味を持った人が想像をめぐらせることを佐藤は許してくれそうな気がしますし、喜んでくれるかもしれません。創造をなりわいとする人にとって一番悲しいことは、自分の作品が忘れ去られることではないでしょうか。

【スピンオフ情報】
〈芸術の家〉
・現在、この美術館は主に現代美術の展示を行っています。抽象絵画などを退廃芸術として排斥し、写実を好んだヒトラーは現代美術を認めなかったでしょうから、この展示方針は、芸術の家がナチスを否定する殿堂として生まれ変わったことを鮮明にしたいとの考えによるのでしょう。
・この美術館の軒下の柱の間には、竹の両端に磁器の壺がはめ込まれたインスタレーション作品がいくつか設置されています。美術館によると、この作品は2009年に開催されたアイ・ウェイウェイ(艾未未)の展覧会「So Sorry」の折に制作されたもので、展覧会後、美術館に寄贈されたものだそうです。岩国徴古館には鉄筋の代わりに竹筋が使われているのではないかという説もあるので、竹という共通点から、この作品に興味をそそられました。

艾未未(アイ・ウェイウェイ)作品

アイ・ウェイウェイ作品

〈『ドイツの造形文化』〉
・この本は1940年に創刊された育生社、新世代叢書の一冊ですが、このシリーズの装丁は、1964年の東京オリンピックのポスターで有名な亀倉雄策が手がけています。岩波文庫のように分野ごとに色分けされていますが、その色味を含め、なかなか洒落ています。戦時色の濃い時代にデザインが意識されていたことは驚きです。
・戦争責任という意味では、この本は、佐藤にとって岩国徴古館より危険な存在だったかもしれません。何しろヒトラーの演説全文や、ヒトラーユーゲントや突撃隊の制服紹介写真なども掲載されているのです。佐藤にとってヒトラーは造形文化の中で建築を最も重んじる稀有な指導者であり、そのような指導者をいただくドイツ建築界に羨望の目を向けていたのではないでしょうか。一方、日本では、1937年には鉄鋼を大量使用する建築に許可が必要となり、終戦まで建築冬の時代が続きました。

参考
佐藤武夫『ドイツの造形文化』育生社、1941年。

HAUS DER KUNST, Retrieved  March 20, 2025, https://www.hausderkunst.de/en/.

※この記事は著者の過去の文章(「岩国徴古館-戦争が生んだ小さな博物館-」 京都芸術大学通信教育部芸術学科アートライティングコース卒業制作)の続編のようなものですが、その折の参考資料は省略しています。

(長和由美子)