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#235

こころに咲く、忘れな草
― 岩手県盛岡市

2023年4月より放送中のNHK連続テレビ小説『らんまん』は、植物学者の牧野富太郎をモデルに制作されていますが、彼は植物を愛し、研究すると共に自身で精緻な植物画も描いていたといいます。それは植物学からの探究的な視線なのだと思いますが、一方で画家として、野の花々を愛し描き続けた人もいます。それが今回取り上げる盛岡出身の画家、深沢紅子(ふかざわ・こうこ)(1903-1993)です。

深沢紅子ゆかりの場所、中津川原

深沢紅子ゆかりの場所、中津川原

盛岡は市内を北上川、中津川、雫石川という3つの一級河川が流れる川の街です。中津川、雫石川は北上川に合流し、宮城県まで流れ太平洋に注ぎます。このうち市役所や盛岡城趾公園の裏手を流れる中津川のすぐそばで、紅子は生まれ育ちます。幼い頃から絵に親しみ、弱冠15歳で県の芸術品展覧会に出品した作品により、将来を嘱望されます。翌年上京し女子美術学校(現女子美術大学)に入学、岡田三郎助に師事します。卒業後、同じく盛岡出身で東京美術学校(現東京藝術大学)を出た深沢省三(1899-1992)と結婚、その後は二科展での入選、女性画家のみの美術団体の組織、児童雑誌の挿絵や婦人雑誌への寄稿など、当時まだ珍しかった本格的女流画家の草分けとして東京で活躍します(註1)。
その一方で紅子は省三と共に教育者でもありました。戦後疎開していた盛岡で、当時珍しかった子供たちの日曜図画教室の開室、またのちに全国に先駆けた県立の美術工芸学校開校へ繋がる岩手美術研究所を地元の芸術家たちと立ち上げます(註2)。紅子も省三も、戦後の荒廃した故郷や人心に触れ、特に子供たちへの美術教育の必要性を強く認識したようです(註3)。誰もが食べる物さえなく、紅子自身も家族と共に開墾生活を送っていた時代。それでも図画教室へは多い時で300人もの子供たちが通い、働く若者が通う美術研究所では紙などの物資が乏しいなかでも、受講生の情熱は大きかったといいます(註4)。こうして県内の美術関係者の多くは、何かしら夫妻のお世話になっており、夫妻が岩手の美術教育の礎を築くことに大いに貢献したことは間違いありません(註5)。

中津川原に咲く忘れな草(野の花美術館提供)

中津川原に咲く忘れな草(深沢紅子 野の花美術館提供)

中津川原には今はあまり目にすることがなくなりましたが、忘れな草が自生しています。紅子が生きていた時代には川原一面に咲いていたといいます。持病のため東京へ戻っていた紅子は「東京の花屋の店先に、るり色の忘れな草の鉢が並ぶ頃になると、ああ、そろそろ盛岡の忘れな草の季節も来るなアと、私はそぞろ故郷盛岡が恋しくなる。(……)その中津川の川原に咲く可愛い花が、忘れな草。盛岡で生まれ育った私にとって中津川ほどなつかしい川はない」(註6)と記しています。様々な野の花を描いた紅子にとっても、忘れな草は原風景の一部として、いつもこころに咲いていたのでしょう。「この花が私の心を育ててくれたように思っている」とまで言える、特別なものでした(註7)。
晩年、紅子は自身の美術館設立を構想します。中津川沿いに建てることは紅子たっての希望だったそうですが、90歳で彼女が亡くなると、美術館設立構想は一旦立ち消えます。しかし、紅子や夫妻を生前から慕っていた人々による募金活動が展開されるなどし、これが大きな市民運動へ発展します。この動きは全国に広まり、県や市の補助金も出たことで美術館設立に至ります。美術館は「深沢紅子 野の花美術館」の名称で、紅子の希望通り中津川沿い、彼女の生家のすぐそばに建てられました(註8)。

深沢紅子 野の花美術館

深沢紅子 野の花美術館

美術館の正面には様々な花が植えられ、私たちを優しく迎え入れてくれます。学芸員の渡邊さんは「美術館が建つこの土地の風土も感じながら、作品を鑑賞してもらえれば」とおっしゃいます。開館以来、「小さな美術館だけれども、市民や沢山のひとの協力でこうして活動できている」そうです。
深沢夫妻の図画教室へ話を戻すと、美術関係者に限らず、私の周りにも当時そこに通っていた方がいらっしゃいます。既にご高齢ですが、お会いするとよくその時のお話をされます。「夫妻に絵を褒められて嬉しかった、とても楽しかったですよ」。当時を語る際の目の輝きからは、それを誇りとしていることと、どれだけのものを夫妻から受け取ったのかを推し量ることができます。それは技術的な指導に限ったことではないことは言うまでもありません。どの子供も「夫妻に見守ってもらえることがエネルギーになったのではないか」と渡邊さんはおっしゃいます。夫妻を知る方々は今でもよく美術館に足を運ばれるそうです。夫妻の面影を探して、当時の思い出を胸に、ここを訪れまたエネルギーを貰う。そんな場所があることは、人生にとって素晴らしいことだと思います。
紅子が生まれて今年でちょうど120年。美術館の近くには藩政時代の橋が架かり、そこから見下ろす中津川原は、春から夏には一面に草花が生い茂り、真夏は子供たちが川遊びに興じ、そして秋には鮭が遡上して道行く人の足を止めます。この彼女が愛した風景は、遺された作品、そして彼女その人との思い出と共に今も盛岡の人々に親しまれています。

美術館が川原を散策する子供たちを見守ります

美術館が川原を散策する子供たちを見守ります

(註1)
展覧会図録『紅子と省三-絵かき夫婦の70年-』岩手県立美術館、2019年、p.11。

(註2)
図画教室は20年以上続き、美術研究所をきっかけに誕生した美術工芸学校も県立盛岡短期大学美術工芸科に移行、その後岩手大学学芸学部特設美術科に引き継がれます。
展覧会図録『深沢省三・紅子のあゆみ〜童画を中心に〜』盛岡市先人記念館、2004年、p.5。

(註3)
展覧会図録『紅子と省三-絵かき夫婦の70年-』岩手県立美術館、2019年、p.8。

(註4)
展覧会図録『紅子と省三-絵かき夫婦の70年-』岩手県立美術館、2019年、p.45。
展覧会図録『深沢省三・紅子のあゆみ〜童画を中心に〜』盛岡市先人記念館、2004年、p.5。

(註5)
省三は県立美術工芸学校設立時に教授に就任、その後の県立盛岡短期大学では夫妻で教授となります。これを紅子は再び上京するまで務め、省三は岩手大学学芸学部特設美術科開設後も、引き続き教授になり退官まで務めています。
展覧会図録『紅子と省三-絵かき夫婦の70年-』岩手県立美術館、2019年、 pp.126-127。

(註6)
深沢龍一監修「忘れな草の咲く頃」『深沢紅子の言葉と絵 野の花によせて』深沢紅子 野の花美術館、2013年、pp.18-19。

(註7)
展覧会図録『紅子と省三-絵かき夫婦の70年-』岩手県立美術館、2019年、 p.106。

(註8)
「深沢紅子 野の花美術館」は盛岡の他、軽井沢にもあります。紅子は軽井沢ゆかりの文人、津村信夫、堀辰雄などとの交流をきっかけに同地にアトリエを構え、制作した時期がありました。運営母体・設立経緯などは異なりますが、両館とも1996年に開館しています。

参考
展覧会図録『紅子と省三-絵かき夫婦の70年-』岩手県立美術館、2019年。
展覧会図録『深沢省三・紅子のあゆみ〜童画を中心に〜』盛岡市先人記念館、2004年。
深沢龍一監修『深沢紅子の言葉と絵 野の花によせて』深沢紅子 野の花美術館、2013年。

深沢紅子 野の花美術館
http://www.nonohana.hs.plala.or.jp/

(大矢貴之)