2)地域>会社から、会社>地域へ まずは自分たちが幸せになる
繰り返しになるが海士町の人口は、戦後長い間減り続ける一方だった。だが、2000年代に入ってからのまちをあげての取り組みが、成果を上げた。2009年を境にほぼ毎年、100人を超える転入者があるようになり、人口の減少には歯止めがかかった。「巡の環」が設立されたのは2008年であり、阿部さんたちの活動も、島の活性化に確実に貢献している。ちなみに2016年の取材当時には、島の人口は2,400人ほどながら、島外からの移住者が400~500人にものぼっていた。
その当時、「巡の環」の軸となる事業は、3つあった。すなわち、海士町のビジョンや各種計画を立案する「地域づくり事業」、全国の企業や自治体、大学の研修を海士町で行う「教育事業」、物産の販売や海士町の魅力を発信する「メディア事業」である。
これらの事業を通じて、「巡の環」も阿部さんも、島のさまざまなひとや取り組みとつながっていた。当時島を訪れたとき、阿部さんが、島の多くのひとに頼られる存在として忙しく動き回り、彼自身、その生活をとても幸せそうに送っているようすが印象的だった。それゆえに、「巡の環」も阿部さんも、これからも島にある複数の課題に向き合いながら、順調に活動を活発化させていくのだろうと、漠然と思っていた。しかし、実際にはそのようには進まなかった。それからほどなくして阿部さんたちは、大きな試練に直面することになったのである。
———2017年~18年にかけてのことでした。収入源として重要だった大きな研修が、立て続けになくなってしまったんです。理由はそれぞれあるのですが、たまたま時期も重なって、大幅な赤字を出すに至りました。加えてそうしたなか、組織も崩れ、複数のメンバーが立て続けに離れていくということも起こりました。いずれも自分にとって、とてもショッキングな出来事でした。それまでももちろん、ずっと順調だったわけではないし、右往左往したことは何度となくあったのですが、この時は、「メガトンパンチ」級の試練がきたという感じでした。
「持続可能な社会」「幸せな社会」をつくることに貢献したい。そのような大きなビジョンを掲げながら、自分の会社のメンバーすらも幸せにできない。そんな会社ならやめた方がいいのではないか。阿部さんはそのようにも考えた。最も悩みが深かった2018年の春ごろは、どうしたらいいかわからなくて、体調を崩すなどを繰り返した。しかし、複数の人に寄り添われ、相談に乗ってもらう中で、阿部さんは進むべき道を見出していく。とりわけ、英治出版の代表・原田英治さんに言われた言葉が、阿部さんを後押ししたという。
———原田さんは2018年4月から1年半、「親子島留学」という制度を使って、小学生の息子さんとご家族で海士町に移住していました。それが縁で、さまざまな相談をするようになったのですが、あるとき言われたんです。「ベック(=阿部さん)はこれまで経営者をやってないじゃない」って。従業員に払う給料を報酬だと考えていなかったか。そうだとすれば、それは違う。報酬ではなく、投資なんだと。こんな成長をしてほしいと経営者が願い、従業員に投資をする。その期待に応えて、みんなが成長して、数年後に会社の利益として返ってくる。事業も同じで、投資して育てるものなんだ、投資をして回収する、それが経営者の仕事なんだって、原田さんは教えてくれたんです。経営者ってすごく面白いよ、と。
そう言われて、気がつきました。確かにこれまで自分は、海士町のためならなんでもやるという気持ちばかりを優先させて、従業員や事業を育てていくという視点が弱かったと。それゆえに会社が疲弊し、苦境に陥ったんだということがわかりました。そして、会社がいい状態になかったら島の役に立つこともできない、まずはしっかりと会社を安定させて、その結果、海士町の役に立つという順番にしなければいけない、ということを、はっきりと認識できるようになりました。
それから、意識を改め、腹をくくって、新たなスタートを切ろうと気持ちを固めました。その決意を明確にする意味を込めて、社名を変更することにしたのです。
そもそも「巡の環」は、起業自体も誘われてのことだったし、社名も自分で決めていない。2年目に代表にはなったものの、自分が経営者なんだという意識は弱く、いつでも辞められる逃げ道をつくってしまっていた。結局は、自分のそのような意識が、会社を危機へと導いたことに気がつきました。
これまでは、会社より地域を優先して、海士町の未来にばかり意識を向けていた。つまり、地域>会社であったのだが、それを地域<会社としなければいけないと、阿部さんは、危機を通じて知ったのだ。この10年は下積み時代だったと捉え、次の10年間で本当の経営者になろう。社名の変更は、阿部さんの、そんな覚悟の表明でもあったのだ。