1)予期せぬ大きな試練 社屋を失う
鳥取県との県境に近い岡山県の山間部。高速道路のインターチェンジをおりるとすぐ、直立する高い木々がぎっしりと並ぶ緑の風景が見えてきた。
岡山県英田郡 西粟倉村。
人口1,400人余りのこの村は、明治時代から林業の村として栄えたが、戦後、木材価格の低下によって林業は徐々に衰退し、人口も減って過疎化が進んだ。21世紀に入って間もない2004年、「平成の大合併」のさなか、近隣の美作市との合併の話もあったが、村は自立の道を選択した。村の広大な森林を形成するスギやヒノキを有効に利用しながら、持続可能な村づくりをするべく動き出した。そして2008年に、そのための核となるプロジェクト「百年の森林(もり)構想」(これまで50年育った森をもう50年管理して上質な田舎を子孫に残すことを目指す)を打ち立てるなど、森林を生かしつつ外のひとを呼びこんで経済の循環をつくろうという試みを始めると、各地から移り住むひとが増えていった。そうして、さまざまな事業が立ち上がり、いつしか西粟倉村は、森を中心とした自然の循環のなかでものづくりをしようとするひとが集まる村になっていった。
本誌では2014年に、西粟倉村で活動する人々を取材している。森林を生かしてさまざまな事業を営むひとたちに話を聞いていったが、そのなかの1人として取り上げたのが、当時家具職人だった大島正幸さん(以下、大島さん)である。
2009年、縁があって西粟倉村を訪れた大島さんは、半日の滞在のうちに移住を決める。この村の森林の木を使って家具をつくろうと考えたのだ。当時勤めていた会社にすぐ辞表を出し、半年後に村での生活をスタートさせる。そして「木工房ようび」の看板を掲げ、家具には向いてないとされるヒノキでの家具づくりに挑戦し、試行錯誤の上に実現させたのだ。その後、建築士である妻の奈緒子さんも加わってスタッフも5名ほどとなった木工房ようびは、さらに活動の幅を広げている――、といったところまでが、2014年の記事の内容だった。
しかしその後、着実に実績を積み重ねていた2016年のこと、「木工房ようび」は、誰もが予期せぬ大きな試練に見舞われることになった。火事で社屋が全焼したのである。
それから4年。社名も「木工房ようび」から「ようび」に変わり、さまざまな変化を遂げた彼らを訪ねた。火事のあと、どうしたのか。そしてコロナ禍の中の現在は――。
話を伺ったのは、大島正幸さんとともにようびをけん引してきた奈緒子さんである。