1)陶都の資源とタイルの技術を生かし、発信する
岐阜県の南東、小高い山々に囲まれた盆地の多治見。市街地より北におよそ3キロ、土岐川が蛇行する虎渓山(こけいざん)を越えて、オフロードの傾斜道を進むと、とつぜん目の前に大きな「土の壁」が飛び込んでくる。
案内されたのは、多治見のタイルの原料となる土を採掘している採土場だ。
——同じ焼きもので有名な地域は今では原料を外から仕入れているけど、原料から製造、販売まで、全てまちのなかでまかなえるのは多治見だけや。
こう語るのは、案内してくれた窯業原料製造販売会社ヤマセの各務(かがみ)寛治さん。多治見でタイルのアーカイブ活動をはじめ、モザイク浪漫館や多治見市モザイクタイルミュージアム設立の立役者となったひとりだ。
露天掘りの採土場の山肌を見ると、茶色に見える上層(うわそう)は山砂利で、一定の深さまで堀り下げると、陶磁器の原料となる灰色の粘土層が表れる。
——もともとこの辺りの上流の地質は花崗岩。それが長い長い歳月をかけ沈殿、堆積して、陶磁器の原料に向いている粘土となった。それだけ時間をかけてつくられた土ということ。どこにでもあるわけではない。
そんな地層のもとに、多治見は1300年を超える「美濃焼」の歴史を歩んできたと言われている。桃山時代、多治見を含む岐阜県美濃東部(東濃)地方の陶工たちが焼いた美濃焼は、茶の湯の浸透とともに茶人のみならず、商人や武将など多くのひとを魅了した。明治以降は全国に販路をもち、ひろく世界に輸出された。陶磁器工場が並び、高度経済成長には市内の世帯の約半数が窯業に関連する事業に携わり、多治見は「陶都」と称された。
そんな多治見で初めてタイルが焼成されたのは1914年。1922年にそれまで不統一だったタイルの呼称が「タイル」に統一され、タイルは本格的に日本社会に根付いていくこととなるが、多治見のタイル製造のはじまりはその前夜のことである。
モザイクタイルとは、50㎠以下の小型タイルのことを指す。もともとは茶碗と湯呑みの産地であった笠原町で、1930年に弱冠23歳の山内逸三(1908-1992)が、施釉の磁器モザイクタイルの焼成を成功させる。この若き青年によるモザイクタイルの開発を契機に、笠原町内では次々とモザイクタイルを製造する工場ができ、とりわけ戦後復興期から昭和30年代の好景気、建築ブームのなかで、国内屈指のモザイクタイル生産地として全国に知られるようになったのだ。
そんな笠原町のタイル製造業は、生産量の増加に合わせるように、生産の効率化を目指して専業化した業種による分業体制がとられるようになった。タイル製造工程で経由する業者だけでも、原料屋さんから製造メーカー、商社や左官屋などがあり、釉薬メーカーやシート加工をする張場など間接的な業種も含めると枚挙にいとまがない。1960年ごろの笠原町には、多くの煙突が屹立していたという。このように地域一体となった地場産業の分業体制で、笠原町は焼きものの町らしい風景であっただろう。
その地場産業の最初の工程が採土場であり、そこから採れる良質な土こそがすべての出発点なのだ。
しかし各務さんは、採土場を眺めながら「この業界には資源に対する戦略がない」と的確に洞察し、指摘する。
——今ここに見える灰色の良質な土の層も、見えているところだけしか残っていない。バブル期のマンション建設ブームの時代に、良質な粘土ばかり採り続けてしまった。先食いしたために、大事にしないといけないものを食い潰してきた。今では中国などから安価なタイルが大量に入ってくる。同じことをしとってもあかん。先を見据え、いいもんをつくらなければ。量から質の時代に入ってきている。
タイルは有限の資源である土からつくられる焼きものである。土資源の枯渇問題は、そのまま産業の根本的な危機につながる。「良質な資源だけでなく未利用資源を含めて、いかに国内の原料を最大限に利用するか。それから資源をできるだけ次の世代に残していくこと。そんな思いから、かつて製造されてきたタイルを集めはじめた。戦略を練り、周知する発信拠点をつくること。だれが得するとかの話じゃなくて、日本全体で考えていかないといけない問題」と強調する各務さんのことばには、長年タイル産業を原料から下支えしてきた実感と危機感が込められたものだった。
では、そんな各務さんたちが収集しはじめたタイルが収蔵されているモザイク浪漫館とは、どんな施設なのか。案内してもらった。